会津若松市(歴史)概要: 会津若松市歴史は古く笹山原遺跡群には数十箇所におよぶ旧石器時代の遺跡があり当時から人々が生活を営んでいた事が分かります。縄文時代や弥生時代の遺跡も多く東北では最も早く弥生時代が開始された地域の1つと言えます。古墳時代も特筆する遺跡が多く東北地方最古の古墳群とされる一箕古墳群や東日本最多の副葬品が出土して国指定史跡に指定された会津大塚山古墳などがありました。
会津若松市に流れる阿賀川は日本海に通じ古くから京都や大阪などの文化が比較的入りやすい地域だった事が考えられます。平安時代の会津若松市は徳一が開山した慧日寺(恵日寺)と勝常寺の影響化に入ります。特に慧日寺は寺領18万石、寺僧300人、僧兵3000人、子院3800坊という大寺院へ発展し会津若松市周辺だけでなく新潟県東部まで影響力がありました。
平安時代末期、慧日寺は平家よりの立場をとっていた為、源氏である木曽義仲との戦いに敗れ急速に衰退し、鎌倉幕府が成立すると御家人だった三浦氏の一族佐原氏が会津若松市を含む会津4郡を支配します。その後佐原氏は芦名氏と名乗り黒川城(会津若松城)と向羽黒山城を本拠とし南奥羽を制する大大名へ成長していきます。
戦国末期になると北関東の雄佐竹氏から養子を迎えるなど次第に衰退し、天正17年(1589)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗北すると本家である佐竹氏を頼り江戸崎(茨城県稲敷市)へ落ち延びていきます。
その後の会津若松市周辺の領主は伊達氏、蒲生氏、上杉氏、蒲生氏、加藤氏と次々と短期間の内に入れ替わり、寛永20年(1643)に保科正之が山形城(山形県山形市)から23万石へ加増され会津藩主となり明治維新まで保科(松平)家が続きます。
特に、保科正之は会津五街道(会津西街道、越後街道、米沢街道、二本松街道、白河街道)を整備するなど領内を整備し、東北地方を代表する城下町として発展します。
戊辰戦争時には白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加したことで新政府軍と対立、旧幕臣だった大鳥圭介や新選組の土方歳三などが終結したものの緒戦に敗れ、その後約一ヶ月の間、鶴ヶ城(会津若松城)に篭城しますが明治元年9月22日に降伏します。戊辰戦争敗戦後、会津藩は3万石に減封され斗南藩(青森県むつ市)に移封、最期の藩主松平容保は罪が解かれた後は日光東照宮の宮司に就任しています。
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