天寧寺(会津若松市)概要: 萬松山天寧寺は福島県会津若松市東山町石山天寧に境内を構えている曹洞宗の寺院です。天寧寺の創建は応永28年(1422)、当時の領主蘆名盛信が傑堂能勝を招いて開いたのが始まりと伝えられています(境内背後の裏山には蘆名盛信のものと推定される墓碑があります)。
領主蘆名家の菩提寺として寺運も隆盛し最盛期には末寺33ヶ寺、僧堂12、雲水(禅宗の修行僧)1000余名を擁する大寺となり会津地方の曹洞宗僧録司の格式を得ていました。
天正17年(1589)、蘆名家が摺上原の戦いで伊達政宗に敗れると天寧寺もその兵火により焼失、当主義広は、実兄佐竹義宣を頼って常陸国に逃れます。
義広は豊臣秀吉から江戸崎4万5千石が与えられますが、関が原の戦いで本家佐竹家が中立を保った為、秋田21万石で移封になり盛重(義広)も連座し出羽角館に封じられます。角館にも菩提寺として天寧寺が創建され蘆名家が断絶後も存続しています。
会津の天寧寺もその後再建され、江戸時代に入ると会津藩主となった加藤嘉明の重臣萱野家の菩提寺となり庇護されます(ただし、大名の菩提寺では無かった為、一般庶民の埋葬も許され多くの檀家が天寧寺を支えました)。
寛永20年(1643)会津騒動により2代加藤明成が事実上改易(その後、明成の子供である明友に石見吉永藩1万石が与えられた。)になった後も萱野家は会津城の受け渡し為に会津に留まり、その後、山形藩(山形県山形市)から会津藩主として入封した保科正之の重臣となり引き続き天寧寺を庇護しました。
萱野家はその後も会津藩の藩政に深く関わり、戊辰戦争の際には9代権兵衛長修が藩主松平容保の側近(家老職1千5百石)として補佐し、敗戦後は全責任を取り明治2年(1869)に江戸飯野藩保科家下屋敷で自刃、菩提は天寧寺境内に葬られています。
又、境内には京都の三条大橋で晒し首となった新選組局長近藤勇(戒名:貫天院殿純忠誠義大居士)の首が何者かが会津まで持ち去り会津藩又は新選組副長土方歳三により墓碑が建立されています。ただし、近藤勇の墓は京板橋東口駅前、愛知県岡崎市法蔵寺、東京三鷹の竜源寺など各地あり、天寧寺の墓には遺骨の一部又は遺髪が葬られたとも云われています。
北国八十八ヶ所霊場第30番札所。会津七福神:毘沙門天。会津十二支守り本尊(卯:文殊菩薩)。会津二十一地蔵尊第10番札所。山号:萬松山。宗派:曹洞宗。本尊:文殊菩薩。
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