福良宿(郡山市)概要: 福良宿は白河街道の宿場町で会津城下から1日の行程だった事から福良宿で宿泊する人も多く、文化・文政年間(1804〜1829年)には134軒の家数があり東西6町28間、南北3町の規模がありました。
猪苗代湖舟運の拠点でもあり、秋山港で荷揚げされた荷物は福良宿に一端集められ、白河街道を通じて奥州街道に運ばれた事から経済的にも発展しました。
馬入峠への分岐点でもあり峠口には口留番所が設置され、江戸時代後期の福良宿には本陣1軒、脇本陣1軒、問屋2軒、宿屋5軒、御用場、さらに会津藩の代官所や御蔵もあり当地方の経済、行政の中心となっています。戊辰戦争の際には新撰組が福良宿を利用し会津藩主松平容保も激励で訪れ、その後も白虎隊なども利用して戊辰戦争では拠点として重要視されていた事が窺えます。
福良宿には社寺も多く、千住院には弘法大師空海が自ら彫刻したと伝わる「木像千手観音立像」を所有し(学術的には鎌倉時代の特徴)、檜材、一木造、素木、像高173cm、昭和58年(1983)に福島県指定文化財に指定されています。境内にある観音堂前には推定樹齢400年の2本のモミの巨木があり昭和53年(1978)に郡山市指定天然記念物に指定されています。戊辰戦争の際は会津藩の野戦病院として使用し負傷した新撰組も運び込まれています。
感応寺には室町時代末期から江戸時代初期にかけて彫刻された木造阿弥陀如来立像を所有し檜材、寄木造、像高78cm、昭和58年(1983)に郡山市指定文化財に指定されています。
往時の主要幹線だった馬入峠山中には平安時代に筑紫国から当地に移民してきた一族が筑紫国一ノ宮である宗像大社の分霊を勧請して創建された隠津島神社が鎮座しています。
隠津島神社は延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社の論社でもあり明治以降は郷社に列しています(二本松市に鎮座している隠津島神社も論社です)。境内は神域だった事から小規模ながら原生林が残されており昭和39年(1964)に福島県指定天然記念物に指定されています。
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