【 概 要 】−加藤明成は天正20年(1592)に加藤嘉明と堀部市右衛門の娘との子供として生まれました。寛永8年(1631)に嘉明の死去に伴い加藤家の家督を継ぎ、会津藩40万石の藩主に就任しています。就任した当時、居城である鶴ヶ城の7層の天守閣が慶長16年(1661)の大地震で大きな被害を受けたままで懸案だった事から、五層の天守閣に改築が行われています(神指城の石垣を当地まで運んで再利用したとも云われています)。同時に鶴ヶ城の西出丸や北出丸など拡張に伴う城下町の町割りも積極的に行われ会津藩の近代化に尽力しています。
戸ノ口堰開削工事の再開を許可した事から、猪苗代湖の湖水を有効利用する事が出来、広大な新田開発が行われ多くの村が開村しました。一方、寛永12年(1635)には幕府の命によりキリシタンの取り締まりを徹底し多くの信者が処刑されています。参勤交代は会津西街道が利用され糸沢宿本陣を宿所としていましたが、寛永17年(1640)から寛永20年(1643)の間は体調を崩していたと思われ江戸藩邸に留まれています。社寺の保護としては寛永10年(1633)には愛宕神社の社殿を造営、寛永13年(1636)に火災で焼失した飯豊和気神社の社殿を造営しています。
寛永16年(1639)、日頃から仲が悪かったとされる家老である堀主水が一族郎党を引き連れて出奔、その際、鶴ヶ城に銃を撃ち込み関所を武力によって突破しました。堀主水一党は高野山、紀州藩と身を寄せましたが、明成は強く引き渡しを要求した事から、幕府に出頭した後に会津藩に引き渡さ渡され、主水と弟である多賀井又八郎は処刑されています(会津騒動)。理由は不明な点が多いですが、寛永17年(1640)には猪苗代城も城代である堀部主膳が不審死(亀姫の祟りとも云われています)、寛永18年(1641)には与力大名で二本松藩(藩庁:二本松城)の藩主加藤明利が病死後に改易となっています。
堀主水の出奔と処刑、与力大名の改易、領内の飢饉などの心労が重なった事が原因となり、明成は体調を崩したようで寛永19年(1642)、明成は病気と政務を任せる家臣がいない事を理由として幕府に対し会津藩の所領を返還したい旨を嘆願しています。寛永20年(1643)、これといった落ち度が無く自ら領地返納するといった前例の無い行為に幕府は困惑したものの、明成の嘆願を受け入れ改易としました。同情する上役も多く改めて1万石与え再興させようとしたものの、明成はそれを固辞し、結局、明成の子供である明友に石見吉永藩1万石を与え加藤家を再興させています。寛永21年(1644)には与力大名で三春藩(藩庁:三春城)の藩主松下長綱も加藤家に連座したようで改易となっています。万治4年(1661)死去、享年69歳、戒名:円通院休意。
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