鳥居忠政:概要

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概要・歴史・観光・見所
鳥居忠政(飯野八幡宮)

【 概 要 】−鳥居忠政は永禄9年(1566)、鳥居元忠と松平薩摩守家広の娘との子供として生まれました。幼少の頃から元忠と共に徳川家康に従い天正12年(1584)には小牧・長久手の戦いに従軍しています。一方で豊臣秀吉の執奏でもあり従五位下左京亮に叙任され豊臣姓を授けられています。慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは家康の命で江戸城留守居役を勤めていました。一方、元忠は僅かな兵を率いて伏見城に立て籠もり西軍の進軍を食い止め壮絶な最期を遂げています。忠政には長兄である康忠がいましたが早世していた事から鳥居家の家督と矢作領4万石を継承、さらに慶長7年(1602)に元忠の大功におり陸奥国磐城領10万石が与えられました。

陸奥国磐城領は中世以来、岩城氏が領していましたが、関ヶ原の戦いでは曖昧な態度をとった為改易となっており、忠政は反徳川勢力の抑え込みと外様で大藩である伊達家の南進を抑える役割があったと考えられます(岩城氏はその後川島藩1万石で復権)。入封直後の忠政は岩城氏の居城だった大館城(飯野平城)に入りましたが、伊達家に備える上では防衛面で脆弱だった為、大館城の東方に位置する飯野八幡宮の境内(赤目崎物見岡)に大規模な城郭を計画し、地名を「飯野平」を「磐城平」に改めて磐城平藩を立藩しています(飯野八幡宮は現在地に遷座させ社殿の造営を行っています。又、城地の一角が子鍬倉神社の境内だったもののその存在を知らず荒らしてしまったとも云われています)。

磐城平城の築城に関しては幕府の意向が強く働いたと見られ、徳川秀忠から永楽銭300貫を拝借したされ、慶長8年(1603)から工事が開始され完成まで実に12年間を要しました。築城工事には数多く領民が駆り出され、中には体が不自由な人や盲人も含まれたとも云われています。又、後沢沼(現在の丹後沢)を磐城平城の外堀として利用する為に工事を進めるものの、天候不順が重なりうまくいかなかった事から陰陽師の勧めにより菅波村出身で95歳にもある箱崎丹後という老人を人柱にしたという伝説が残されています。

鳥居忠政は新田開発を積極的に行う一方で慶長8年(1603)から領内で厳しい検地も行い、城下町には元忠の菩提を弔う為に長源寺を創建しています。理由は良く判らなのですが著名人の配流先にもなっていたようで、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで西軍方に加担し改易となった羽柴下総守勝雅を預かり、慶長13年(1608)に不行跡で改易となった筒井定次を預かり、慶長14年(1609)には密通事件(猪熊事件)で飛鳥井雅宣を預かり、慶長5年(1610)に発生した越後堀家の御家騒動により松平越後守忠俊を預かり(長源寺に埋葬)、慶長17年(1612)に発生した「越前騒動」で今村掃部を預かり、慶長18年(1613)には宇和島藩主富田信高が改易となり忠政の預かりとなっています(禅長寺に埋葬)。元和8年(1622)に最上騒動により山形藩主最上義俊が改易になると忠政は22万石で移封となり、寛永5年(1628)に死去、享年63歳。

飯野八幡宮:写真
鳥居忠政と縁がある飯野八幡宮神橋越に見える壮麗な楼門 鳥居忠政と縁がある飯野八幡宮参道石畳みの奥に見える質実な唐門 鳥居忠政と縁がある飯野八幡宮拝殿から大きく張り出した唐破風の向拝 鳥居忠政と縁がある飯野八幡宮本殿と幣殿、それを囲う透塀
子鍬倉神社:写真
鳥居忠政と縁がある子鍬倉神社参道石段前に置かれた石造社号標 鳥居忠政と縁がある子鍬倉神社参道に設けられた石鳥居と石燈篭 鳥居忠政と縁がある子鍬倉神社石段から見上げた拝殿と石燈篭 鳥居忠政と縁がある子鍬倉神社社殿(拝殿・本殿・幣殿)全景左斜め前方の画像
磐城平城:写真
鳥居忠政と縁がある磐城平城 鳥居忠政と縁がある磐城平城 鳥居忠政と縁がある磐城平城 鳥居忠政と縁がある磐城平城



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