蒲生郷成:概要

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概要・歴史・観光・見所
蒲生郷成(長禄寺)

【 概 要 】−蒲生郷成は戦国時代に坂勝則の子供として生まれ、坂源次郎と名乗っていました。当初は織田家の家臣である関成政、その後は織田家の家老である柴田勝家の家臣となりました。天正11年(1583)に発生した賤ヶ岳の戦いに敗れ北庄城(福井県福井市)で柴田勝家が自刃すると、暫くは浪人したようですが豊臣秀吉に従った蒲生氏郷に仕えるようになりました。天正14年(1586)に豊臣秀吉によって行われた九州征伐にも蒲生隊の一員として参陣し、天正15年(1587)には島津家に服属していた秋月種実の属城である豊前国岩石城攻防戦で先陣を命じられ僅か1日で陥落させる大功を挙げ秀吉からも褒美を賜っています。

その後、蒲生姓を賜り「蒲生郷成」に改姓、天正18年(1590)に蒲生氏郷が鶴ヶ城(福島県会津若松市)に遷ると、それに従い、領内の阿子ヶ島城(福島県郡山市)の城代を勤めています。その間、二本松城(福島県二本松市)の管理も任されていたようで、氏郷は豊臣秀吉による奥州仕置きの際に豊臣方の奉行(浅野長政)が二本松城に派遣される旨を書状に認め郷成に送っています。天正19年(1591)には白石城(宮城県白石市)の城代となり本格的な城郭へと改変し「益岡城」に名称を改め、その後に二本松城の城代に赴任しています。

蒲生家は急速に石高を増やしたせいか、次第に派閥が形成され文禄元年(1592)に氏郷が文禄の役(朝鮮征伐)で名護屋城(佐賀県唐津市)に赴き鶴ヶ城を留守にいた際、蒲生郷可と蒲生郷安が対立し郷成が仲裁する事件が発生しました。一方、文禄4年(1595)に上洛した際にはルイス・フロイス神父より受洗を受け氏郷と同様にキリシタンとなっています。文禄4年(1595)に氏郷が死去し、嫡男である蒲生秀行が家督を継ぐと家中の争いはさらに酷くなり、奉行の筆頭となった蒲生郷安が対立した派閥に属する亘理八右衛門を鶴ヶ城におびき寄せ斬殺、それに激怒した町野繁仍は郷安を粛清するべく軍勢を集め一触即発の事態となりました(郷成は町野繁仍に与していたようです)。

結局、この御家騒動が豊臣秀吉が知る事となり慶長3年(1598)に蒲生秀行は会津領92万石から宇都宮領18万石に減封となり、それに従った郷成は笠間城(茨城県笠間市)3万石で配され家老に抜擢、笠間城(阿武山=佐白山)には重楼(天守閣?)を設けています。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで秀行は宇都宮城(栃木県宇都宮市)で西軍方の上杉景勝を牽制した功により、慶長6年(1601)に会津領60万石で復権、郷成は領内にある守山城(福島県郡山市)に城代として赴任しています。

慶長14年(1609)に三春城(福島県三春町)の城代となり、さらに須賀川城(福島県須賀川市)に入り4万五千石に加増されています。この頃から同じ家老である岡重政と対立するようになり、結局出奔し藤堂高虎に仕えるようになっています。慶長19年(1614)に重政が失脚すると再び蒲生家に仕える決断をしますが、会津に向かう途中に死去しています。須賀川城の城下に境内を構える長禄寺(福島県須賀川市)は郷成の菩提寺とされ、五輪塔が建立されています。

長禄寺:写真
蒲生郷成と縁がある長禄寺 蒲生郷成と縁がある長禄寺 蒲生郷成と縁がある長禄寺 蒲生郷成と縁がある長禄寺
二本松城:写真
蒲生郷成と縁がある二本松城の二重櫓 蒲生郷成と縁がある二本松城の箕輪門 蒲生郷成と縁がある二本松城の塀重門跡 蒲生郷成と縁がある二本松城の日影の井戸
三春城:写真
蒲生郷成と縁がある三春城(舞鶴城) 蒲生郷成と縁がある三春城(舞鶴城) 蒲生郷成と縁がある三春城(舞鶴城) 蒲生郷成と縁がある三春城(舞鶴城)



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