【 概 要 】−本多忠義は慶長7年(1602)、本多忠政と妙高院との子供として生まれました。慶長19年(1614)に発生した大坂の陣で功を挙げた事から、元和元年(1615)に従五位下、能登守を叙位しています。寛永8年(1631)に忠政が死去すると姫路藩(兵庫県姫路市)から4万石、兄である本多政朝から1万石が分知され、寛永16年(1639)に掛川藩(静岡県掛川市)7万石の藩主に抜擢されています。
正保元年(1644)に村上藩(新潟県村上市)10万石に移封となり、慶安2年(1649)に白河藩(福島県白河市)12万石へ移封となっています。慶安3年(1651)に白河藩内で大規模な検地を行い財政の基盤が確立しましたが、今までとは高く見積もられ税率も上がった為、農民の負担が増大し不満がくすぶっています(忠義は年貢を納める際、今まで利用していた升より大きなものを採用したとされ、新たに3万7千石余を打ち出したとされます)。
藩庁が置かれた小峰城は大きな改変はありませんが、本多家の菩提寺である久松寺(寺領150石)の造営や、明暦3年(1657)には領内総鎮守である鹿嶋神社に神輿(白河市指定文化財)を寄進し鹿嶋神社例大祭(現在の提灯まつり)を再興、同年には日頃から信仰している弁財天を祭る御堂(現在の龍興寺)の造営を行っています。
寛文2年(1662)隠居、延宝4年(1676)死去、享年75歳、戒名:大信院本誓忠義大居士。菩提は久松寺に葬られましたが、跡を継いだ本多忠平が天和元年(1681)に宇都宮藩(栃木県宇都宮市)、貞享2年(1685)大和郡山藩(奈良県大和郡山市)に移封になると随行し結果的に廃寺、現在は奈良県添上郡の玉竜寺に改葬されてます。
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