加藤明利

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加藤明利(二本松城)
【 概 要 】−加藤明利は慶長4年(1599)、会津藩初代藩主加藤嘉明と堀部氏の娘との子供として生まれました。元和2年(1616)に従五位下・民部少輔に叙任、寛永4年(1627)嘉明が会津藩43万5千5百石で移封になると明利は三春領3万石が与えられ三春藩(藩庁:三春城)を立藩し民部大輔となっています。三春藩では大きな実績がないものの一揆が発生、寛永5年(1628)に松下長綱と交替する形で二本松藩(藩庁:二本松城)に移封となっています。明利は二本松城の山頂部である本丸や二ノ丸を整備する共に麓の郭内を拡張し家臣の屋敷を配しています。寛永8年(1631)に嘉明が死去すると兄である加藤明成が家督を継ぎ会津藩主に就任、明利は引き続き二本松藩を任されています。兄の加藤明成と同様にキリシタンの取り締まりは厳しく接したようで多くのキリシタンが捕縛され仮牢で他宗教に転じるように教育されたそうです。同様に領内全域で検地が行われた為、新田分も年貢が徴収され領民にとっては過酷だった事から徳川家光が奥羽松前巡見使を派遣した際に訴えようとしています。

寛永14年(1637)には隠津島神社(福島県二本松市)が鎮座している木幡山の山林を保護する禁制を発布しています。寛永16年(1639)会津藩の家老堀主水が出奔しその後、明成に引き渡され処刑される所謂「会津騒動」が発生、寛永17年(1639)には猪苗代城(福島県猪苗代町)の城代堀部主膳が突然死を迎え一族の間に不穏な空気が流れる中、寛永18年(1641)に明利は病死しています。幕府は一連の死に不信を抱き二本松加藤家を改易としています。戒名:雲心夢月寶樹院、顕法寺(福島県二本松市)の境内に墓碑が建立され、御堂には位牌が安置されています。

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