亀ヶ城(猪苗代城)

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概要・歴史・観光・見所
亀ヶ城(猪苗代城)概要: 亀ヶ城(猪苗代城)は町中心部の小高い丘にある平山城で、本城である鶴ヶ城(会津若松城)と対をなす城として重要視されました。亀ヶ城(猪苗代城)は文治5年(1189)に発生した奥州合戦で大功があり会津地方を与えられた佐原義連の孫にあたる佐原経連が建久2年(1191)に築いたのが始まりとされます。一方、佐原経連は鎌倉時代中期の武将とする説がある為、実際はもう少し時代が下がる可能性があります。その後、本家は芦名氏を称し南奥羽を制する大大名に成長し、当家は猪苗代氏を称し芦名氏の一族としてその一翼を担うようになります。時代が下がると猪苗代氏は半独立した存在となり、天正17年(1589)に発生した摺上原の戦いでは米沢城(山形県米沢市)の城主だった伊達政宗に与した為、芦名氏敗北の大きな要因となっています。しかし、政宗が会津地方に侵攻した行為は豊臣秀吉が発した惣無事令違反と裁定された為、米沢、岩出山(宮城県大崎市岩出山町)に移封する事になり、当時の城主だった猪苗代盛国も亀ヶ城(猪苗代城)を離れる事になりました。その後、鶴ヶ城(会津若松城:黒川城)には蒲生氏郷、上杉景勝、蒲生秀行、蒲生忠郷、加藤嘉明、加藤明成、保科正之が入り、亀ヶ城(猪苗代城)はその支城として重要視され、慶長20年(1615)に幕府により一国一城令が発せられた後も城郭として認められ石垣を配する本格的な近世城郭として明治維新に至っています。又、亀ヶ城(猪苗代城)の近くには保科正之の墓域と、御霊を祭る土津神社が鎮座した事からも会津藩が特別視していた事が窺えます。戊辰戦争(会津戦争)の際には会津藩と旧幕府軍の戦略的拠点として重要な役割を果たしましたが、母成峠を突破した新政府軍が来襲するにあたり時の城代が城を焼き払って鶴ヶ城(会津若松城)へ撤退したことで亀ヶ城(猪苗代城)の歴史を閉じます。

案内板によると「 三浦氏の一族である佐原義連は「奥州征伐」の軍功により、頼朝から会津四郡を与えられました。その子盛連には六男があり、長男である大炊介経連が猪苗代を領して猪苗代氏を称しました。経連は、磐梯山南麓の弦峯の地に建九二年(1191)亀ヶ城を築いたと伝えられています。 以後、十四代盛胤まで猪苗代氏代々の居城でしたが、天正十七年(1589)「摺上原の戦い」で芦名方が伊達勢に敗退したことにより、盛胤も湖南横沢に引退し、猪苗代城主はここに終わりを告げました。 しかし亀ヶ城は、江戸初期に出された一国一城令にも破却されず、近世を通じて城代が置かれ、幕末の戊辰戦争によって焼失するまで会津藩東の要として残された名城です。」とあります。現在でも亀ヶ城(猪苗代城)の跡地には石垣や郭、虎口の形状、土塁などの遺構がよく残され貴重な事から平成10年(1998)に猪苗代町指定史跡に指定されています。

亀ヶ城(猪苗代城):写真

亀ヶ城
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