丹羽長貴

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丹羽長貴(隠津島神社)
【 概 要 】−丹羽長貴は宝暦6年(1756)、丹羽高庸の長男として生まれました。明和2年(1765)に高庸が病死するとそれに伴い明和3年(1766)に二本松藩7代藩主に就任しています。計算上は僅か9歳で藩主になっていますが、当時、幼少な後継ぎは認められない場合や、石高が減じられる例があった為、幕府には寛延4年(1751)生まれとして届け、元服の年齢に達している14歳に合わせたと考えられます。

明和4年(1767)に二本松城の城下町に大火が発生、出火元は松岡町とみられ強風が吹きつけた為、城内の武家屋敷201軒、町人の町屋544軒、神社3軒、寺院8ヶ寺、籾蔵2ヶ所、夫食蔵2ヶ所、飯料入蔵23ヶ所が焼失し大きな被害を出しています。当時の長貴は10歳前後だった事から当然家老等が対処したと思われますが財政に大きな負担となりました。

さらに天明の大飢饉が直撃し農村が荒廃、長貴は領内の惨状を目の当たりにして、成田頼綏に命じて藩政改革を行わせています。特に間引きや中絶が横行した事で人口減が顕著になった事で「赤子出生養育御達書」を発布、内容は2人目の子供が生まれたら五斗入り米1俵支給する等の多産の家族を優遇する措置で、藩からの下賜金と豪商、豪農からの献金を基に貸付を行い、その利子を財源に充てています。さらに、寛政2年(1790)には養老法を発布し高齢者にも救済を行い長寿の領民を表彰したりもしました。

しかし、その後も寛政4年(1792)に甲州川の普請工事や、寛政6年(1794)に発生した火事により江戸藩邸が焼失するなど費用が掛かる事案が続き藩の財政は逼迫する事になります。寛政8年(1796)死去(表では江戸仮藩邸で病死した事になっていますが、一説には長寿の藩政改革に反対した依包源兵衛に刺殺されたとも云われています)、戒名「雄峯院殿覺道俊英大居士」、墓碑は丹羽家の菩提寺である大隣寺の境内に建立されています。

丹羽長貴は社寺の保護も行い、寛政元年(1789)には隠津島神社の拝殿と本殿の再建を行い、寛政6年(1794)に拝殿、寛政12年(1800)に本殿が竣工しています。隠津島神社拝殿、本殿の両建物共に当時の良質な社殿建築の遺構として貴重な事から二本松市指定文化財に指定されています。

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