丹羽光重

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丹羽光重(二本松城)
【 概 要 】−丹羽光重は元和7年(1622)、丹羽長重と側室である竜光院との子供として生まれました。長重の正室は織田信長の娘である報恩院で、性格が勝気で嫉妬深く既に2人の男子を設けていた事から光重の存在は誕生から秘匿されていたようです。しかし、報恩院との子供は相次いでこの世を去った為、寛永5年(1628)に嫡子となり報恩院からも認められました。寛永14年(1637)、長重の死去に伴い白河藩の藩主(小峰城の城主)に就任、さらに寛永20年(1643)に二本松藩に移封となり初代藩主となっています。

光重は二本松城を10万石の藩政に耐えうる城郭へと大改修させ、主に本丸を中心に要所を石垣を積み、本丸には三重天守閣、麓には三の丸が拡張され御殿が造営、防衛の要として新たに箕輪門が設けられています。城下町は麓の郭内を武家地に定め、観音丘陵で武家町と町人町を完全に分離し、町人町には奥州街道を引き込む事で経済流通の便宜を図っています。明確な寺町は町割りされていませんが、観音丘陵の南側の麓に社寺が配され、特に地形的に凹になっている奥には有力社寺の境内となり二本松城の防衛の一端を担うように計画されています。

丹羽光重は文化人の一面があった事から積極的に文化の興隆に尽力し、雲堂天岳法印を招いて遍照尊寺(真言宗)を開山、高泉性和尚を招いて珊瑚寺(黄檗宗:現在は廃寺)を開山、太獄祖清禅師を招いて松岡寺(臨済宗妙心寺派)を再興しています。又、二本松藩の総鎮守として二本松神社を篤く信仰し扶持米80石と社領25石を寄進(さらに50石を加増)、寛文4年(1664)に町人達にも自由に参拝出来るようにし現在に伝わる二本松提灯祭りの原型が行われています。

光重は領内の開発も同時に行い承応元年(1652)頃に家臣で二本松藩の算学者である磯村吉徳や山岡権右衛門に命じて二合田用水を開削しています。二合田用水は安達太郎山中から二本松城下まで約18キロの距離に及び、周辺の新田開発や飲料水の確保、消防や防火に利用されました。社寺の保護としては延宝2年(1674)に隠津島神社の三重塔が修復されています。光重は毘沙門天に帰依していたようで岩角寺を丹羽家歴代の祈願所として復興に尽力しています。宝7年(1679)、嫡子である丹羽長次に家督を譲って隠居、元禄14年(1701)に死去、菩提は丹羽家の菩提寺である大隣寺の境内に葬られています。

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