田村清顕

  福島県:歴史・観光・見所(ホーム)>田村清顕
田村清顕(福聚寺:田村家三代の墓)
【 概 要 】−田村清顕は田村家惣領で三春城(福島県三春町)の城主ある田村隆顕と伊達稙宗の娘との子供として生まれ、天正2年(1574)に隆顕が死去すると家督を継いでいます(数年前から事実上の惣領として采配していたと思われます)。戦国時代は伊達家、相馬家、佐竹家、芦名家といった田村家より大きな大名に周囲が囲われていた事から、隆顕の時代から各家々とは同盟と離反を繰り返しており、元亀2年(1571)には当時、共闘していた芦名盛氏・盛興父子と共に、佐竹家の南奥羽進出の拠点だった寺山城と羽黒山城に攻撃を加え勝利しています。天正2年(1574)には一転して芦名氏と二階堂氏と対立、天正3年(1575)には再び共闘し、佐竹氏、石川氏の連合軍を迎え撃っています。

田村清顕は天正4年(1576)に安積郡に侵攻し版図を広げたものの、周囲の圧力に屈する形で天正7年(1579)に娘である愛姫を伊達政宗に嫁がせ形式上は伊達家に下っています。天正8年(1580)から天正9年(1581)にかけては佐竹氏や芦名氏の支援を受けた二階堂氏の猛攻を受け、岩瀬郡や安積郡の領土を引き渡し、天正12年(1584)には田村家に従っていた大内定綱が離反するなど衰微しました。天正14年(1586)死去、遺骸は田村家の菩提寺である福聚寺(福島県三春町)に葬られ墓碑が建立されています(清顕の遺骨は跡を継いだ田村宗顕が伊達家の重臣で白石城の城主片倉家に保護された事から、宮城県白石市の田村家墓所に改葬されています)。その後は田村家惣領の後継を巡り、伊達派と相馬派が対立し独立した大名家からは没落、伊達家の家臣に組み込まれていきました。

田村清顕は社寺に対しても保護を行い、天正10年(1582)には田村家の菩提寺である福聚寺に掟書(福島県指定文化財)を発布、天正14年(1586)には田村大元神社(福島県三春町)に死去する直前に自ら書した大般若経600巻を奉納、天正4年(1576)には大鏑矢神社(福島県田村市)に鏑矢を奉納しています。

※ 文章や画像のコピーは御遠慮ください。御理解の程よろしくお願いします。