【 概 要 】−蒲生忠郷は慶長7年(1602)、会津藩の藩主蒲生秀行と振姫(徳川家康の三女)との子供として生まれました。幼少の頃は病弱だったようで慶長年間(1596〜1615年)に大正寺(北塩原村)や北山薬師如来堂(北塩原村)で病気平癒の祈願や祈祷が行われ、見事平癒すると振姫は感謝の意から薬師三尊像を寄進しています。慶長17年(1612)、秀行が死去すると蒲生家の家督を継ぎ、会津藩の藩主に就任しています。就任当時は幼少だった事から振姫が後見人となり家臣達が藩政を司っていましたが、大事には至らなかったものの一族間の派閥争いが絶えずあり安定的ではなかったようです。
そのような中、懸案だった鶴ヶ城天守閣の改築や、飢饉の際の贅沢品の生産を禁止を命じています。又、越後街道の整備にも尽力し寛永2年(1625)に宿場町である坂下宿の町割りを行っています。寛政3年(1626)に疱瘡を患い、寛永4年(1627)死去、享年26歳、遺骸は高巌寺に葬られ塚が築かれましたが、現在はその姿を見る事は出来ません(没後100年後に追善供養の為に墓碑が建立されています)。
蒲生忠郷は社寺の保護も行い、北山薬師如来を篤く帰依した事から鶴ヶ城の城下に館薬師堂(会津若松市)を造営、忠郷の生母である振姫は宝積寺(会津若松市)を再興、慶長16年(1611)の会津地震で倒壊した恵隆寺(立木観音)を慶長19年(1614)に再建しています。
元和3年(1617)に振姫が再婚先の浅野家(和歌山藩)で死去すると元和5年(1619)、忠郷は融通寺(会津若松市)に振姫の位牌を安置し寺領200石を寄進、鶴ヶ城に東照宮を創建した際に別当寺院だった紙本著色胎蔵金剛両界曼荼羅を寄進(現在は延寿寺の末寺だった円福寺に遷されています)、石塚観音(蓮台寺)は振姫が篤く信仰した寺院で忠郷が死去した際には御影が奉納されています。
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