松下長綱:概要

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概要・歴史・観光・見所
松下長綱(三春城)

【 概 要 】−松下長綱は慶長15年(1610)、二本松藩5万石の藩主松下重綱と星覚院(加藤嘉明の娘)との子供として生まれました。寛永4年(1627)、重綱の死去に伴い松下家の家督を継ぎ二本松藩2代藩主を就任しましたが、藩庁が置かれた二本松城奥州街道と岳街道がする交通の要衝で軍事的拠点でもあった為、若輩だった事が幕府から不安視され、加藤明利と入れ替わるように寛永5年(1628)に三春藩3万石で移封となっています(若輩といっても元服を終えた18歳でさらに石高も4割減の2万石が削られた事でかなり不合理な配置替えだったと思われます)。

長綱は藩庁である三春城の大改修を行い中世城郭から近世城郭へと改変し、城下町の整備も行っています。天翁山州伝寺は松下長綱が父親である松下重綱の菩提を弔う為に創建した松下家の菩提寺で、寺号は重綱の戒名「州伝院長厳長洋大居士」、山号は祖父である松下之綱の戒名「綱元院殿天翁長珊大居士」に因むもので、境内に建立されている重綱・長綱・豊綱の墓碑は三春町指定史跡に指定されています。光岩寺は長綱の母親である星覚院が開いたとも、星覚院の菩提を弔う為に長綱が開いたとも云われる寺院で星覚院の持念仏だったと伝わる阿弥陀如来立像は国認定重要美術品に認定され福島県指定文化財に指定されています。寛永13年(1636)に従五位下に叙位、同時に石見守に任官しています。

寛永21年(1644)に幕府の公式見解として「乱心」により改易となり、正室(喜与姫)の実家である土佐藩の藩主山内忠義に預けられ万治元年(1658)に死去しています。松下長綱の改易理由には諸説ありますが、前年である寛永20年(1643)に本藩といえる会津藩の藩主加藤明成も改易になっている事から連座した可能性が高いと思われます。一方、ただでさえ不合理に減石されていた上に、寛永16年(1639)には会津騒動を起こした堀主水が処刑、寛永17年(1640)には猪苗代城の城代である堀部主膳が不審死、寛永18年(1641)に二本松藩の藩主加藤明利が不審死及び改易、寛永20年(1643)に加藤明成が改易と周辺で次々と不幸が連続して起こった事から精神的に追い詰められ乱心に及んだのかも知れません(その他にも松下家は豊臣恩顧の大名だった事や、会津藩に保科正之を配する為に加藤家一族が邪魔になったなどの説がります)。享年49歳、戒名:月照院殿円室宗孤大居士。

三春城:写真
松下長綱と縁がある三春城(舞鶴城) 松下長綱と縁がある三春城(舞鶴城) 松下長綱と縁がある三春城(舞鶴城) 松下長綱と縁がある三春城(舞鶴城)
二本松城:写真
松下長綱と縁がある二本松城 松下長綱と縁がある二本松城 松下長綱と縁がある二本松城 松下長綱と縁がある二本松城



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