【 概 要 】−松平康爵は文化7年(1810)、浜田藩(島根県浜田市)の藩主松平康任と松平康定の娘との子供として生まれました。本来は次兄でしたが天保2年(1831)に兄である松平康寿が死去した事で嫡子に任命され、第11代将軍徳川家斉に拝謁、従五位下左近将監を叙任しています。天保6年(1835)、浜田藩の財政を助ける為に浜田藩御用商人である会津屋八右衛門が密貿易を画策、国家老岡田頼母と年寄松井図書も一応の許可を出し、康任も黙認していた事が発覚しました。
さらに康任は仙石騒動も関わっていた事から老中を辞任、強制隠居の上永久蟄居に処せられました。これに伴い康爵は松平家の家督を継ぎ浜田藩の藩主に就任しましたが、幕府からは「追テ所替仰セ付ラルベク候」と康爵にも懲罰的な左遷を予感させる書状が届けられています。天保7年(1836)、康爵は正式に棚倉藩(福島県棚倉町)6万石の移封が決まり同年には「御目通差扣格」に格下げられています。
松平康爵が棚倉城に入ると領内に境内を構えている山本不動尊を事他篤く信仰し嘉永2年(1849)には開運出世を祈願する為に石灯籠一対と、自ら書した「不動尊」の扁額を奉納しています。
さらに、隠居した後の元治元年(1864)には室である稲葉氏泊ス子と連名で護摩仏具を奉納しています(松平康英の代の慶応2年:1866年に川越藩8万4千石で移封になり、康爵が生存中に念願成就した事から山本不動尊が開運の不動尊と呼ばれるようになったと伝えられています)。又、康爵は嘉永7年(1854)、宇迦神社にも石灯籠一対を奉納しています。嘉永7年(1854)に隠居、慶応4年(1868)に死去、享年59歳、戒名:寛隆院殿温誉誠円徳潤大居士。
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