棚倉城

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概要・歴史・観光・見所

棚倉城概要: 棚倉城は江戸時代に棚倉藩の藩庁、藩主居館が設けられた城郭で、案内板によると「元和8年(1622)常陸国古渡から棚倉に入封した丹羽長重は、寛永2年(1625)この地に鎮座していた近津明神(馬場都々古別神社)を現在の馬場に遷宮して、その境内地に輪郭式(本丸・ニノ丸・三ノ丸)の平城である棚倉城を築城しました。本丸には大きな土塁を築いて、ニノ丸西側にのみ石垣を用いる等の特徴があります。

長重は寛永4年に白河へ転封となり白河城の改築も行っています。長重の父は織田信長の家臣で安土城築城の責任者を務めた丹羽長秀です。棚倉城は関東と東北の境目にあることから、親藩・譜代の大名が治める城でしたが、慶応4年(1868)の戊辰戦争によって城下の一部と共に焼失しました。・・・(後略)。 棚倉町教育委員会」とあります。

棚倉城は平坦な土地に築かれた梯郭輪郭複合式平城で、近津明神(馬場都々古別神社)が祭られていた事から「近津城」、当初は荒土のままだった事から「新土城」との別称がありました。本丸の高土塁にはほとんど石垣が使用されず、城下町内部の街道は鉤型状にクランクさせ、町全体で防衛する工夫が見られます。

本丸には4棟の隅櫓が配され、それらを繋ぐ土塁には本丸全周多門櫓が取り囲んでいました。二ノ丸との間には追手門、北二門の2箇所の出入口があり、何れも枡形で櫓門が設置され、二ノ丸には追手門、南門、北門、埋門があり埋門以外は全て番所を設けて人物改めなどが行われました。

天保7年(1836)に松平康爵が入封の際に棚倉城を受けった資料が残されており、それによると本丸坪数1万4千932坪余、二ノ丸坪数2万3千565坪、本丸家屋坪数393坪余、城域4町35間四方、城の高さ約4丈8尺、本丸堀深約4間、幅18間〜37間、二ノ丸堀深約3間2尺、幅7間〜14間半、本丸の狭間(矢狭間74カ所・鉄砲狭間342カ所)、二ノ丸の狭間(矢狭間226カ所・鉄砲狭間692カ所)だった事が記されています。

二ノ丸にある大ケヤキは棚倉城の築城以前の馬場都々古別神社境内にあったものとされ推定樹齢600年、樹高32m、幹周9.5m、昭和51年(1976)に福島県指定天然記念物、昭和58年(1983)に福島県指定緑の文化財に指定されています。 棚倉城は現在でも本丸の水堀や高土塁、大手門の虎口の形状などの保存状態が比較的良い城跡で、現在は亀ヶ城公園として整備されています。

唯一の棚倉城の遺構として南門が長久寺山門として移築されています。棚倉城の城跡は大変貴重な事から平成31年(2019)に国指定史跡に指定されています。

棚倉城:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 東北地方の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 日本の城下町2[東北(二)]-株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-棚倉町教育委員会
・ 現地案内板-棚倉町
・ 現地案内板-棚倉町・棚倉町観光協会


棚倉城:ストリートビュー

棚倉城:写真

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