棚倉町: 八槻都々古別神社

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概要・歴史・観光・見所
八槻都々古別神社(棚倉町)概要: 八槻都々古別神社は福島県東白川郡棚倉町八槻大宮に鎮座している神社です。八槻都々古別神社は馬場都都古別神社を上之宮、近津神社を下之宮とする近津三社の1つされ、奥州一宮として広く民衆の信仰の対象となっていました。八槻都々古別神社には日本武尊の伝説が伝えられていますが、その原因となったのが、陸奥国風土記逸文と称する一文にあります。それによると、日本武尊が東夷東征で当地を訪れた際、賊徒を討伐する為に矢を射って落ちた場所が「八槻」の地名の由来になった事が記されています。又、古老の話として、昔、当地には8人の土蜘蛛(黒鷲、神衣媛、草野灰、保々吉灰 阿邪爾媛、梯猪、神石萱、狭礒名)が居て天皇に従わなかった為、はじめた磐城の国造が派遣されたものの敗れた為、天皇の命により日本武尊が征伐に派遣されました。土蜘蛛は津軽の蝦夷を得て猪鹿弓、猪鹿矢を用い、石城に立て籠もり激しく抵抗しましたが、尊の槻の弓より放った8本の槻の矢により8人土蜘蛛達は次々射抜かれ、蝦夷は四散、射抜いた矢からは槻が芽吹き、八槻郷と呼ばれるようになったと記されています。

「陸奥国風土記逸文」と聞くと事実と思われますが、実際には江戸時代に編纂された「大善院旧記」という古文書に引用したと記載されているだけで、大善院は八槻都々古別神社の別当である為に第三者的な資料とは言えず真偽の程は判りません。特に都々古別神社は論社が多く、それぞれが当社である事を主張し、大善院もより正当性を強調する為に作為的な文書を創作する事は決しておかしな行為ではなかった時代でもあります。全く利害関係の無い人物が筆した文書に同じような内容があれば初めて事実に近いと言えると思いますが、現在そのような古文書が見つかっていない事から慎重に扱った方が無難と思われます。日本武尊が実在し東征が行われたとすると、その経路上にあり隣の国である常陸国の風土記は尊の事を倭武天皇と称し、東征の事跡は全く記されていません。

慶長2年(1597)に編纂された八槻都々古別神社の由緒である「陸奥国一宮近津大明神縁起」によると、景行天皇の御代(西暦71〜130年)、日本武尊が東夷東征で当地に進軍しした際、八溝山に頑強な陣を張った土蜘蛛(蝦夷の将軍)との交戦となり一進一退を繰り返し遠征軍も疲れが見え始めました。日本武尊が天に念じると、面足尊、惶根尊、事勝國勝長狭命の三神が出現し神鉾を授けると武鉾山(建鉾山)に姿を消しました。日本武尊は吉兆と悟り、武鉾山から3神が消えた方向に箭(矢)を放ち、刺さった場所で味耜高彦根命に戦勝祈願をしたところ、神意の導きにより勝利を掴み取る事が出来ました。日本武尊は神意に感謝し矢の刺さった場所を聖地として味耜高彦根命を祀る社殿を造営したと伝えられています。八溝山は真言宗の開祖である弘法大師空海が、山容が八つの谷に分かれている事から命名したとも云われ、八溝山に境内を構える日輪寺にも、空海が当地に巣くう邪鬼を退治したとの伝承が残されいる事から、様々な伝説や伝承が混ざり合い上記の由緒が成立したのかも知れません。

延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に名神大社として記載された「都都古和気神社」とは当社の事とも云われ古くから格式の高い神社として認識されていました(諸説ある為に現在は論社)。奥州一宮(陸奥一宮)に関しては陸奥国府に隣接する塩釜神社(宮城県塩竈市)が有力ですが、陸奥国府と塩釜神社が衰退した時期に、陸奥国の中で格式が高い名神大社だった都々古別神社が陸奥国一宮として認識されていたようで、江戸時代に入り仙台藩主伊達家が塩釜神社を再興すると、再び塩釜神社も陸奥国一宮としての体裁が整えられています。

平安時代後期には後三年合戦(出羽国で起った豪族清原氏の反乱)の鎮圧の為に源義家(八幡太郎義家)が当地まで進軍した際には当社で戦勝祈願を行い、日本武尊が千戦千勝だった神話に基づき、社号を「千勝明神」に改め、何時しか「近勝明神」と呼ばれるようになりました。古くから神仏習合し、別当である八槻大善院家は熊野参詣先達職として当地域からいわき南地域に及ぶ広範囲の修験僧を束ねる立場として大きな影響力があり、境内にも観音堂や阿弥陀堂など仏教色の濃い施設が建ち並び熊野信仰の拠点の1つとして発展しました。社宝も木造十一面観音立像や聖護院道興短冊、大般若経、銅造十一面観音菩薩坐像、銅造観音菩薩立像など仏教関係のものが多く神仏習合の名残が窺えます。

戦国時代に入ると白河結城氏や佐竹氏など歴代領主や江戸時代には水戸藩主徳川光圀や徳川斉昭など太守が崇敬し社領の寄進や社殿の造営が行われました。古くから神仏習合し、別当寺院だった大善院は周辺の山岳修験の拠点、熊野修験とも強い係わり合いを強め大きな影響力があり、八槻都々古別神社の境内にも多くの堂宇が建立されていましたが、明治時代初頭に発令された神仏分離令により形式上は仏教色は一掃され、旧社号である「都々古別神社」に復して郷社に列し、明治18年(1885)に国幣中社に昇格しています。明治時代に入り、棚倉町馬場に鎮座している馬場都々古別神社が国弊中社に列せられた為、激しい本社争いが行われ、結果的に2社共に認められ当社も国弊中社に列格しました。

八槻都々古別神社の例祭である「御田植」は国指定重要無形文化財に指定され、案内板によると「旧歴1月6日の午前10時から、拝殿を舞殿として行われ、古くは夜に行われたと伝えられている。八槻都々古別神社は、平安時代に編纂された「延喜式」にも記載されている神社で旧社号を近津大明神といい、奥州一宮と称している。かつての氏子は県南地方一帯を占め、信仰の広さと厚さでは県内でも指折りの神社であった。御田植は古くから神社に奉仕する社家と呼ばれる人々が楽人となって、拝殿で演じる稲の豊作を祈念する芸能で、伝来の時期は不明だが、その形態から室町時代以前から行われていたとされている。・・・(後略) 棚倉町教育委員会」とあります。

八槻都々古別神社境内は古社の雰囲気が漂う神聖な印象が感じられます。大きな鳥居を潜ると両脇には大木が立ち並び、正面には朱色に塗られた神社山門(随神門:切妻、銅板葺、三間一戸、桁行3間、張間2間、八脚単層門、外壁は真壁造り木部朱塗り)があります。門からは木垣で社殿を囲み神楽殿を兼ねる拝殿(木造平屋建て、入母屋、銅板葺、平入、桁行6間、梁間3間、正面唐破風向拝付、外壁は真壁造り板張り木部朱塗り)と本殿(三間社流造、銅板葺、正面千鳥破風、唐破風向拝、朱塗り)が控えています。格式:式内社(名神大社)論社、陸奥国一宮、旧国幣中社、別表神社。主祭神:味耜高彦根命。相殿神:日本武尊

都々古別神社(八槻)の文化財
・ 御田植-室町時代以前-古典的な豊年予祝の芸能-国指定重要無形民俗文化財
・ 銅鉢(4口)-室町時代-応永18年(1411)の銘-国指定重要文化財
・ 木造十一面観音立像-天福2年(1234)-国指定重要美術品
・ 聖護院道興短冊-文明19年(1487)-福島県指定文化財
・ 銅製釣灯籠(2基)-福島県指定文化財
・ 八槻文書(242点)-室町時代-福島県指定文化財
・ 御正体−福島県指定文化財
・ 銅鉢−福島県指定文化財
・ 古面(17口)−福島県指定有形民俗文化財
・ 八槻都々別神社の神楽−福島県指定無形民俗文化財
・ 大般若経−棚倉町指定文化財
・ 銅造十一面観音菩薩坐像−棚倉町指定文化財
・ 銅造観音菩薩立像−棚倉町指定文化財

八槻都々古別神社:写真

都々古別神社(八槻)
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