保科正之(会津藩初代藩主):概要 保科正之は2代将軍徳川秀忠の4男で、3代将軍徳川家光の異母弟に当たる人物です。当初は庶子だった事から見性院が養育係りとして育てられ、見性院が武田信玄の次女で、武田家の一族である穴山家に嫁いだ関係で、旧武田氏の家臣だった高遠藩の藩主保科正光3万石の養子となっています。正光には既に跡継ぎとして確約されていた左源太という別の養子がいましたが、事実上排斥され正之が高遠藩主に就任し26歳まで高遠城(長野県伊那市高遠町)に在城しています。家光は実弟である徳川忠長との対立からか、反面、正之に対して異常な程に信頼し可愛がり、寛永13年(1636)には山形藩20万石に大幅な加増移封となっています。正之は山形城(山形県山形市)に入ると馬見ヶ崎川修築工事や擶山大堤の堤防修理など領内の整備に尽力し、さらに家臣に対しては民衆の手本となる為に「家中仕置」18条と「道中法度」13条を制定して藩内をまとめあげます。一方幕政でも武家諸法度の制定にも大きく携わるなど重責を担うようになると寛永20年(1643)に奥州の要衝である会津藩(福島県会津若松市:鶴ヶ城)23万石に移封となっています。
幕政での功績
保科正之は幕政においても家光の事実上の片腕、4代将軍徳川家綱の補佐役(大政参与)として大名証人制度や殉死の廃止、末期養子の緩和、江戸の防災面への都市計画(道路の幅の拡張や水堀の拡張)、江戸の上下水道の整備(玉川上水の整備など)、庶民への救済などが行われました。慶安4年(1651)に家光が死去する直前、遺言として将軍家を守るようにと伝えられ、この遺言に従い寛文8年(1668)には会津松平家の家訓である「会津家訓十五箇条」を制定し、「会津藩主が将軍家を裏切るような行動を起こした際は家臣はその命に従ってはならない。」とまで言及しています。
大名証人制度の廃止: 大名証人制度とは幕府が大名の家族を人質にする制度の事で戦国時代には、家臣が主家を乗っ取る、所謂「下克上」が頻発し、さらに出奔して他家に主を替える事が数多く行われていた事から、主に対して人質を差し出す事で忠誠心を示し、主家からも一定の拘束力を持がある事から安定した関係を築く事が出来ました。江戸時代に入ると幕府は諸大名や有力家臣の身内を人質として差し出させ、さらに大名の妻子を強制的に江戸に住まわせるなど武断政治が行われていました。保科正之の時代に入ると、そのような戦国時代の気風が薄れ、幕府の体制も安定し大名の反乱が起こる可能性が非常に低くなった事から、文治政治が行われるようになり、正之の提言により大名証人制度が廃止になっています。
殉死の廃止: 殉死とは、主家が死没した際に、時を前後して自ら自刃する事で、武家の思想では忠義とされ、逆に行わない家は不忠義という評価を受けました。江戸時代初期にはその思想が顕著に現れ伊達政宗には15人、細川忠利には19人など後を絶たず、当然、人材の損失は計り知れないものがあり、当時の世情からもズレた感覚、風習となった為、寛文3年(1663)に正之は殉死の廃止を幕府の制度化させました。この制度の発布後も度々殉死が行われましたが、その都度、厳罰を与えた為、次第に少なくなりました。
末期養子の緩和: 末期養子とは跡継ぎがいない藩主の死後に養子を迎え家督を継がせる制度の事で、当時は藩主(当主)が生前に跡継ぎと定め、幕府が認めた者でなければ藩主を継ぐ事が出来ませんでした。その為、藩主が早世した場合には断絶する藩も多く、その都度多くの浪人は発生し世情的にも不安定になりました。保科正之は藩主が死んだ後でも養子を迎える事が出来るように制度を緩和した為、比較的安定した藩政が行われるようになっています。
江戸の防災計画: 明暦3年(1657)、所謂「明暦の大火」で江戸で大規模な火災が発生し、江戸城の焼失をはじめ多くの被害(大名屋敷500軒・旗本屋敷770軒・町屋400町余)、被害者(10万人以上)を出しました。保科正之は庶民に対して1週間以上も炊き出しを行い、さらに16万両に及ぶ救済金を支給、参勤交代で江戸に詰めていた大名には一時帰国させ世情と物価の安定を図りました。江戸の町の再興には、江戸城の天守閣の再建を諦め、その資金を利用して様々な計画が成されました。主なものは、大名屋敷や有力御家人の屋敷を城下の外側に社寺仏閣を郊外に移転させ江戸の町を拡大させ、火災の際の延焼を防ぐ為に道路や神田川の拡幅や火除け地(空き地・広小路)の整備などを行い現在の町割に近い大変換を行いました。
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