二宮尊徳(街道沿いの土地の開拓)

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二宮尊徳:概要 二宮尊徳は小田原藩領内の一農民の出でしたが、荒地を開墾して地主となり、さらに小田原藩の武家に奉公し実績を重ねました。当時の家老服部家がその才能を見抜き自らの財政を任せると予想以上の成果が得られた事から、藩主大久保家の分家宇津家(旗本)の財政の担当を担うようになりました。宇津家の領地である桜町領(物井村・横田村・東沼村:現在の栃木県真岡市)は元々4千石だった石高が土地の荒廃により実石で1千石程度に目減りし、さらに戸数も433軒から145軒に減少、耕作地も220町から120町に減少、人の心も荒廃した上に人間関係も複雑といった状況でした。二宮尊徳は独自に報徳仕法という仕法を取り入れ、文政5年(1822)から10年以上の長期間に渡り桜町領の開発に尽力し、その実績が認められ小田原藩内では報徳仕法を1つの規範として多くの集落で行われ再興しています。二宮尊徳自身も隣接する天領(真岡代官領)でも実績をあげ天保13年(1842)には幕府から召還され弘化元年(1844)から日光神領の調査が命じられ嘉永3年(1850)から神領での開発が開始されました。同年、尊徳は日光で死去、その後は神格化され、今市宿には報徳二宮神社が創建し神様として祀られています。

二宮掘: 嘉永6年(1853)、二宮尊徳は日光から各集落を経て会津西街道に入り、滝温泉(現在の鬼怒川温泉)で宿泊、翌日も複数の集落を視察し現状を把握し、それぞれにあった仕法を計画しました。当時の柄倉村では雨になり降水量が増えると水はけが悪く水浸しになる田畑が多く、猪などの鳥獣被害が多かった事から、山際に約3キロにも及ぶ空掘を掘る事で山からの水の流れを止め、さらには猪の田畑侵入を抑える計画をしました。嘉永7年(1854)7月5日からは用水堀が和泉村・平ヶ崎村・千本木村から随時開削され最終的には延人足1086人を要して七里〜野口〜和泉〜平ヶ崎〜千本木の5箇村を結ぶ全長約6.3キロ(3478間)の大用水路が7月25日に完成しています。用水堀は大谷川から取水し千本木村の田川に落水するもので五ヶ村用水又は二宮堀とも呼ばれ、原町には完成を記念して水神碑(二宮堀付水神碑は日光市(旧今市市)指定史跡に指定)が建立されています。その後も二宮尊徳指導の下、報徳仕法により日光神領の開発が続き合計25町4反8畝4歩(約55ヘクタール)が耕地となり、中でも安政6年(1859)から安政7年(1860)にかけて行われた今市・瀬川入合地の開発では5町4反4畝27歩が開発され神領随一の美田と言われました。


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