古川古松軒(東遊雑記):概要 古川古松軒は江戸時代後期の旅行家、地理学者としられ、日本各地を遊学し「西遊雑記」、「東遊雑記」、「山野地里津河」、「名所廻り」、「名所の家苞」、「日本回国古松軒筑紫之土産」、「東行雑記」などの紀行文や絵本を発刊しています。今までの紀行文とは異なり、自分なりの目線でありながら、他所と比較対象するなど実体験を通して様々な事柄を分析し、感想や考察を記載している為、しばしば批判的な事象もそのまま述べられています。絵図や地誌の編纂など業績は多岐にわたり、寛政7年(1795)には出身地である岡山藩(岡山県岡山市)から士分として取り立てられ名字帯刀が許されています。
東日本に東遊する前の天明3年(1783)3月末に居宅の下道郡岡田村(倉敷市真備町岡田)を出立し備中→備後→安芸→長門→豊前→日向→大隅→薩摩→肥後→豊後→肥後→長崎→岡田村(9月)に到る「西遊」を行い、その時の様子を記した「西遊雑記」を編纂しています。
会津西街道(下野街道): 古川古松軒が会津西街道(下野街道)を利用したのは天明8年(1788)に水戸藩長久保赤水の知遇を得て幕府巡見使の随員に採用され巡見使藤波要人、川口久助、三枝十兵衛に従い奥州、蝦夷地に随伴した時の事で、この時、江戸から奥州街道を利用して陸奥国に入り、白河(福島県白河市)から白河街道で会津(福島県会津若松市)、二本松街道で三春(福島県三春町)、二本松(福島県二本松市)、福島(福島県福島市)、米沢街道で出羽国に入り、米沢(山形県米沢市)、上山(山形県上山市)から羽州街道を北上して山形(山形県山形市)、横手(山形県横手市)、久保田(秋田県秋田市)、大館(秋田県大館市)、弘前(青森県弘前市)に入り、蝦夷地(北海道)に渡った後に再び奥州街道を南下し、水戸街道を経由して江戸(東京都)に帰国しています。その間に記載されたのが「東遊雑記」で、訪れた町や集落の様子を細かく表現され資料的な価値も非常に高いとされています。江戸時代末期には近藤重蔵、間宮林蔵など多くの幕府の役人や冒険家などが蝦夷地を目指しましたが、彼らの参考書として「東遊雑記」は大変貴重な存在で大きく影響されたと思われます。
|