平家落人伝説

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平家落人伝説(湯西川温泉・温泉街など):概要 日本全国、至ると所で平家や平氏の落人伝説が数多く残っています。このページでは会津西街道(下野街道)沿いに伝わる平家落人伝説を幾つか紹介したいと思います。

【湯西川温泉の伝説】−湯西川温泉(栃木県日光市)の温泉街湯西川温泉(栃木県日光市)に伝えられている伝説によると、壇ノ浦の戦いで敗れた平家の落人(平忠房=忠実)又は平景定(平清定の子供)が宇都宮朝綱を頼り川治の鶏頂山に住んでいると、一人の男児が生まれました。その年の端午の節句に男児誕生の祝いから上り旗を挙げると、その旗が源氏により発見された為、鶏頂山を後にしてさらに奥地の栗山の地(湯西川)に流れ着きました。その後裔が、雪の降ったある日に雪の積もらない場所を発見し、そこを調べると霊泉が湧き出るを発見したのが湯西川温泉の始まりと伝えられているそうです。湯西川温泉の温泉街には甲胄や刀剣を埋めたと伝わる平家塚や、菩提寺である慈光寺などの史跡が点在し、平家塚平家の落人の後裔とされる伴家の「伴」の字は平家の「平」の字の変形に人偏を合わせたものとされます。又、源氏に発見された事を教訓にして端午の節句は一日遅れで行い「鯉幟はあげない」、「鶏は飼わない」という風習が現在も続けられているそうです。湯西川温泉ではこの平家落人伝説を利用し、平家落人民俗館や平家の里が設けられ、平家大祭と呼ばれる祭りが行われています。一方、塩原温泉(栃木県那須塩原市)の温泉街では平貞能が平重盛の一族と共に宇都宮頼綱の庇護の下で匿われていたと伝えられています。ここで、3人の登場人物を少しまとめたいと思います。

平忠房(忠実)−忠房は平将門の嫡男である平重盛の6男又は5男にあたる人物で、将門から見ると孫となります。一般的には源平合戦の1つ屋島の戦いで平家敗北の後で戦線を離脱、紀伊国(現在の和歌山県)の豪族湯浅宗重に匿われ、壇ノ浦の戦いで平家が敗北すると、その残党を纏め上げ湯浅城で3ヶ月に及ぶ籠城戦を展開し奮戦します。力攻めでは湯浅城を落とす事が出来なかった源頼朝は偽りの和睦を成立させ、その後、刺客(後藤基清)を放たれた忠房は刺殺されました。この事柄は平安時代末期の公家である吉田経房が筆した日記「吉記」に記載されているもので、第三者が日記形式で表現されている為に信憑性の高い資料となっています。

平貞能−貞能は平家の有力な一族で重盛の次男である平資盛の補佐役だった人物です。源平合戦の終盤で戦線を離脱し出家、九州地方に隠遁したとされます。壇ノ浦で平家が敗れると、宇都宮朝綱を通じて鎌倉方に投降し形式的には許され朝綱に身柄が預けられています。この事柄は鎌倉幕府の正式な歴史書である「吾妻鏡」で記載されている為、一定の信憑性はあります。しかし、その後の貞能の行方や行動は不詳で歴史的な資料からは読み取る事は出来ません。その為、妙雲寺(栃木県那須塩原市)では草庵を設けた、安善寺(栃木県芳賀郡益子町)では当寺を創建、小松寺(栃木県東茨城郡城里町)では当寺を創建し重盛の遺骨を埋葬、定義如来(西方寺:宮城県仙台市)では平家の安寧を祈願して阿弥陀如来を安置し当寺を創建などの伝承が各地に残っています。

宇都宮朝綱−朝綱は宇都宮家3代目当主で北関東に大きな影響力がありました。鳥羽院武者所、後白河院北面を務めていた関係で上洛している最中に源頼朝が挙兵、平将門は朝綱が頼朝に呼応するのを恐れて京都に抑留します。その時、朝綱を取り成したのが平貞能で、御蔭で帰国が許され頼朝の重臣として平家滅亡に大きな功績を挙げています。このような経緯から朝綱と貞能との間には強い繋がりがあったと推察されます。

以上の点から推察すると、宇都宮朝綱と平貞能とは強い関係性が見出せるものの、朝綱と平忠房とは余り関係性が見出せず、平家一門を匿えば重罪に値する事を考えれば中々厳しいと思われます。そもそも、信憑性の高い「吉記」で忠房は刺殺されている事からも真実というよりはやはり伝説の粋を出ないかも知れません。あくまでも、推論なので、湯西川温泉に伝わる伝説を否定している訳ではなく、伝説や伝承、風習は大切に守られる方が良いと思います。


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【川俣温泉の伝説】−川俣温泉では源平の合戦で敗れた平家の落人が当地に流れ着き、平家縁の財宝(黄金千枚、くわ千枚、うるし千枚)を塚(平家塚)を築いて隠したとされ、その塚を見ると目が腐り、塚を触ると、触った先から体が腐り始めると伝えられています。少し離れますが旧栗山村上栗山(現在の日光市赤坂)には一門の安寧と再興を祈願して植えられた平家杉(日光市指定天然記念物)があり、結局念願叶わず平家の再興が成されなかった事から、杉が遠慮して子孫(子杉)を残さず「子無し杉」の別称があります。又、落人が住んでいた集落は川俣ダムが建設されると湖底に沈んだそうです。こちらの伝説の主人公は平藤房と称される人物ですが、現在は否定的に捉えられ、藤原藤房の後裔とされる藤原藤四郎が川俣温泉を発見したという説が有力視されているそうです。因みに藤原藤房は南北朝時代の公卿で後醍醐天皇の側近として倒幕運動で大きな功績を挙げた事からとともに日本三忠臣の1人に数えられている人物です。藤房が当地と関係があるのかは不詳で、後裔が何故当地に来たのかも不詳、何故藤原家が開湯したのに平家落人縁の温泉になっているのかも不詳です。伝説を好意的に捕らえると平藤房以外の平家の落人が移り住んだものの、温泉は藤原藤房の後裔を自称した藤四郎を名乗る人物が発見したという事になります。

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【女夫渕温泉の伝説】−女夫渕温泉の伝説によると、壇ノ浦の戦いの後、平家一門とされる中納言が奥州に逃れた事を聞いた、中将姫が愛しい人を追いかけるように奥州に向かいました。一方、中納言は源氏からの追ってが余りにも厳しく、鬼怒川沿いに奥へ奥へと逃れ等々上州国境に近い平五郎山引馬峠を越えるまでに至りました。中将姫は各地の村人から噂話などを聞きながら何とか川俣の奥の洗坂沢付近まで着ましたが、それでも逢う事が出来ず、結局神仏に祈りながら当地に住み着くようになりました。それから数年厳しい生活に耐え忍び、尚、再会に思いを馳せていると、偶然に「三音渕」の畔で中納言と再会する事が出来ました。2人は仲良く手を繋ぎながら鬼怒沼を目指して姿を消し、何時しか「三音渕」は「女夫渕」と呼ばれるようになったと伝えられています。

会津西街道(下野街道):歴史・伝承・伝説
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