イザベラバード(大内宿):概要 イザベラバードはイギリス人女性紀行家で、明治11年(1878)6月から9月にかけて通訳兼従者である伊藤鶴吉を連れ立って、北関東から東北、蝦夷地(北海道)を旅し、その時の旅の詳細をまとめた「日本奥地紀行」を発刊しています。「日本奥地紀行」では明治時代初期の北日本の様子が外国人から見た率直な意見が記載されています。
会津西街道・今市宿〜藤原宿: 日光東照宮や奥日光など日光周辺を見学したバードは会津西街道(下野街道)を北上し会津を目指しました。当時は路面も整備されていなかったようで、ぬかるんだ道では馬でも一時間で4キロも進めず、それでも3時間後には山間の集落に着き、蔵を持つ裕福そうな家の軒先で食事を取っています。そこで乗り継ぎ用の馬を待っている間には外人を見るのが珍しいのか多くの村人が集まり不思議そうに見つめているが印象的だったようです。新しく来た馬で小佐越まで来ると、今まで見た集落とは異なり、家はみすぼらしく、住んでいた住民も半裸で顔色が悪く痩せ細り、皮膚病に罹っている患者も多数いたとされ、バードは文献でもこのような状態の集落があるとは思わなかったようです。明治11年にもなると東京はかなり文明開化が進んでいた事から、それと比べても同じ日本ではないようだと感想を述べています。小佐越から藤原宿の行程は鬼怒川(龍王峡)や「日光連山」の素晴しい風景に感動し、勾配がきつく無く街道沿いの豊富な草木などを紹介し、日本式の埋葬方法にも興味を持ったようです。この日は藤原宿で宿泊、宿場には46軒の家屋の内、宿屋は1軒のみで、バードが泊った部屋は相部屋の部屋を通過しなと入れない「奥座敷」で相部屋では6人程の半裸の男性がくつろいでいたとし、部屋の中は無数の蚤が飛び跳ね書き物が出来ない程だったそうです。藤原宿の人々は外では上着を着ているものの、室内では殆ど半裸で生活してたようで、さらに不衛生で数多くの害虫がいた事からバードも安眠出来なかったようです。バードの通訳兼従者の伊藤も日本でこのような集落がある事が知らなかったようで都市部と地方との格差がかなり大きかったと思われます。
藤原宿〜五十里宿: 次ぎの日も鬼怒川沿いに会津西街道を北上し高原の宿で卵かけご飯の昼食を採り、鬼怒川沿いに湧き出る温泉地(川治温泉?)などを見ながら、再び素晴しい風景を感動しています。この日は五十里宿で宿泊、五十里宿は25戸程で建物は山の斜面の段丘に沿って建てられていて、江戸時代には名字帯刀が許された名主である「赤羽家」に泊っています。赤羽家は本陣を兼任していたようで、大名など身分が高い人物が宿泊や休息で利用する上段の間があり、床の間や襖、障子などの意匠が芸術的だったと評し泊った部屋も昨日の藤原宿の宿と比べて格段に清潔だったそうです。
五十里宿〜川島宿: 五十里宿から横川宿の間も美しい風景が広がり、横川宿で昼食、ここの宿も蚤が多かったらしく建物の外で食事を採っています。横川宿でも外人が珍しく人だかりとなり、子供達は目が合うと逃げ出したとし、やはり、みすぼらしい姿の人達が多く、困窮している割に子沢山の家庭が多い事にも疑問を持ち、外人を見るのに2時間も仕事の手を休めるのもどうかと思っていたいたようです。その後、山王峠を越えて分水嶺から激流沿いに峠道を数時間下り、糸沢宿でひどい馬を借りて川島宿に着く前に馬を下りて徒歩で宿場に着いています。川島宿は57戸程ですが藤原宿よりも酷い印象を受けつつも疲労困ぱいだったらしく、意を決して宿泊しています。宿の主人は丁寧で礼儀正しい対応を取ったものの宿所は思った通り酷く、薄暗い上に炉の煙で部屋中充満しさらに、湿り気と悪臭で不衛生だったとしています。又、例のごとく宿場中の住民が外人見たさに群がっていたので窓を開ける事が出来なく、村祭りがあった為、一晩中祭りの騒々しさにより一睡も出来なかったようです。
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