【奥日光:イザベラバード】−イザベラバードが奥日光を訪れたのは明治11年(1878)6月22日、日光東照宮がある麓から駄馬により最終地点である湯元温泉に向かいました。まず初めに目にしたのが「般若滝」と「方等滝」で最後に2段になっている事が素晴しいとしています。その後は急坂となり登り易いようにジグザグの道が続き中央は人が歩き易いように階段、脇は馬が歩き易いように坂になっていました。美しい眺めを観ながら坂を登り詰めると、眼前に中禅寺湖が男体山に優しく包まれ、まるで眠っているかのように静かに広がっているのを観て感動し、その湖面を平和の鏡として例えています。男体山は信仰の対象になっている神の山で、山頂には祠が設けられ、犯罪者が自分の罪を悔い凶器として使用した数百本の刀剣が納められていると説明し、中宮祠を見て不思議なもの寂しさを感じています。さらに坂を登ると中宮両祠(二荒山神社中宮祠)が境内を構え、この中宮両祠が日光権現の元になった神社である事を説明し、本来最も神聖性な場所なのに誰も参拝者がいなかった事から、日本人は信仰心が薄く、祭りも「行楽」に過ぎないと苦言を呈しています。その後、岩面をものすごい勢いで落ちてくる龍頭滝、中禅寺、美しい湖面に新緑の木々が映し出される湯ノ湖などを見ながら湯元温泉に至ります。
湯元温泉は入口付近に外湯である露天風呂があり、沢山の裸男性が寝そべっていた事から、女性であるイザベラバードからすると大変不快に思ったようで、美観を損ねると断じています。湯元温泉についてはリウマチや慢性皮膚病などに功能があり、辺りは硫黄臭が漂い、源泉は温泉宿を通して、湯ノ湖に流れ込むと説明しています。対して宿所となった「吉見屋」は絶賛で、人間ではなく妖精が宿泊するのに相応しい場所と褒め称え、板戸からは木の良い香り、畳は新品、縁側の松も綺麗に磨かれ、お茶や、お菓子、かき氷なども満足したようです。
湯元温泉の温泉街はかなり流行っていたようで、4つの温泉小屋(共同温泉)はどれも人であふれ、中には1日に12回温泉に浸かる人もいるようだと感嘆しています。基本的に娯楽がなかった事から湯治客は一日中、宿と温泉小屋を往復し、決まって藍色の手拭を持ち歩き、終わったら縁側の手摺にかけて乾かすという行為を繰り返していたようです。宿には満足したものの、宿代や買い物には「ピン撥ね」が度々行われた事には閉口し、従者である伊藤は宿の主人と話あい、定められた宿代より高い金額で請求させ、差額分が伊藤の懐に入る仕組みには嫌気をさすが、日本語が判らないイザベラバードはどうする事も出来ない歯がゆさが伝わってきます。日光への帰路には湯ノ湖を源とする湯滝や壮大で素晴しい華厳の滝などを見学し感動した様子が表現されています。
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