会津美里町(歴史)概要: 会津美里町の歴史は古く下萩曽根遺跡や冑宮西遺跡、北松沢遺跡、冑宮西遺跡、鹿島遺跡、上道上遺跡などがあり当時から人々が生活が営んでいたことがわかります。
会津美里町高田にある伊佐須美神社は会津総鎮守、奥州二宮、岩代一宮にもなっている由緒ある神社で、創建神話に祭神である大毘古命と建沼河別命が相合ったため相津(会津)という地名が起こったとされます。
その他にも会津美里町には会津地方の天台宗の中心的立場の古刹で地方唯一の三重塔がある法用寺や天海大僧正を輩出(伝)し国宝「一時蓮台法華経開結共」を寺宝とする龍興寺、国指定重要文化財に指定されている富岡観音、三層懸造りの左下観音堂など多くの神社仏閣があり、会津地方の宗教に大きな影響を及ばした地域の1つと言えます。
鎌倉時代は富塚伊賀守盛勝が地頭として周辺を支配しましたが、次第に芦名氏が台頭するようになり羽黒山城を居城とし城下町の建設や領土経営を行ます。芦名氏が居城を鶴ヶ城(会津若松城)を移すと急速に城下町としての機能が失われていきます。
江戸時代に入ると会津藩によって街道が整備され、会津美里町では会津五街道の1つ会津西街道(下野街道)が敷かれます。
会津西街道は会津藩を始め村上藩(新潟県村上市−村上城)と新発田藩(新潟県新発田市−新発田城)、庄内藩(山形県鶴岡市−鶴ヶ岡城)、米沢藩(山形県米沢市−米沢城)が参勤交代や日光東照宮の参拝などに利用され会津美里町では福永宿や関山宿、越後街道と会津西街道を結ぶ脇街道には高田宿が開かれました。特に高田宿は経済的にも発展し周辺の中心的な要素が強くなり現在の会津坂下町に移るまでは郡役所が置かれていました。
|