越後街道(会津〜新発田)概要: 越後街道(新潟県側からは会津街道と呼ばれていた。)は会津五街道の1つで現在の会津若松市と新潟県の新発田市を結ぶ街道です。特に江戸時代に発展し、新発田藩(新発田市−新発田城)と村上藩(村上市−村上城)の参勤交代に利用され、津川宿、野沢宿に本陣が置かれました。
太平洋側と日本海側を結び、佐渡金山へ続く街道として三国街道と北国街道と並び佐渡三道の一つと数えられ五街道(東海道、中山道、甲州街道、奥州街道、日光街道)に次ぐ街道として重要視されました。
物資の往来も多く越後側からは海産物、会津側からは米などが運ばれました。江戸時代に入ると会津藩が街道を整備し、特に蒲生忠郷は寛永2年(1625)に坂下宿の町割りを行っています。
会津は古くから越後国、出羽国、下野国に通じる交通の要衝で南奥羽の中心とされました。江戸時代に入ると会津藩の藩庁、藩主居城が置かれた会津城の城下町として発展し、特に越後街道は日本海側の海産物を会津城下に搬入路、又、会津藩の年貢米を京都、大坂に運ぶ運搬路として重要視されました。新発田は新発田城の城下町として発展し、武家長屋や武家屋敷、藩主菩提寺(宝光寺)、藩主下屋敷の庭園(清水谷御殿)などが残されています。
津川宿の地は古くからの交通の要衝で津川城が築かれ軍事的な拠点でもありました。江戸時代に入ると一国一城令により津川城は廃城となり城下町としての機能は失われましたが、越後街道の宿場町として改めて町割りされ整備されました。当時の津川周辺は会津藩の領地だった為、津川には藩の出先機関である代官所が設けられ行政的にも中心地となりました。
又、阿賀野川舟運の最大の拠点となった事から多くの物資が津川で荷物の荷揚げ、荷下げされた為、物資の集積場、中継地として大きく発展し日本三大川港に数えられました。現在は衰微しましたが、「雁木」のある町屋建築が軒を連ね往時の繁栄が窺えます。
越後街道沿いには神社仏閣も多く、中でも恵隆寺(立木観音)は欽明天皇元年(540)に梁の僧である青岩によって創建されたと伝わる古寺で最盛期には36坊もの堂宇を擁した大寺院として発展した事から門前町でもある塔寺宿も多くの僧侶や参拝者によって利用されたと思われます。塔寺宿に鎮座している心清水八幡神社は河沼郡の総鎮守として信仰を集め、源頼義や芦名氏、会津藩主松平家から庇護され、江戸時代末期には吉田松陰も参拝に訪れています。野沢宿に程近い山中に境内を構えている如法寺(鳥追観音)は大同2年(807)に坂上田村麻呂と徳一上人によって開かれたと伝わる古寺で、名僧と名高い行基菩薩が彫刻した本尊「鳥追観音」が御利益があるとして広く信仰を広めました。
越後街道は、村上藩や新発田藩の参勤交代で利用されただけでなく、多くの著名人が津川宿を利用しています。越後街道の江戸時代後期の様子は文化13年(1816)に発刊された十返舎一九著の「金草鞋第八編」の「越後路之記」で記載され、難所である諏訪峠については「会津より越後新発田まで至る街道のうち、この峠ほど高く難儀なるはなし。暑い時分も峠は寒し。」と表現しています。幕末には吉田松陰も長州藩を脱藩して東北遊学の最中、会津城下を訪れ、越後街道を使い新潟に向かう途中、難所である諏訪峠で「雪甚だ深く、行歩甚だ難し」と語っています。
戊辰戦争の際には比較的早くから奥羽越列藩同盟を脱退し新政府軍に転じた新発田藩から続々と新政府軍が雪崩れ込み、越後街道を南下して会津城下に進軍、赤谷宿や津川宿では激戦が繰り広げられ各宿場では大きな被害を受けています。明治時代初期にはイギリス人女性紀行家イザベラバードも日光から会津西街道を利用して会津に入り、越後街道の津川宿を経て新潟に向かっています。明治時代以降、近代的な交通網から外れた為、多くの宿場町は山村集落となりましたが、一里塚や、石畳、道標、落ち着いた町並みなどが点在しています。
越後街道(会津〜新発田)のルート
会津城下−坂下宿−塔寺宿−気多宮宿−船渡宿−片門宿−本名宿−縄沢宿−
津川宿−綱木宿−赤谷宿−山内宿−新発田城下
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越後街道(会津〜新発田)の見所
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
・ 完訳 日本奥地紀行1-株式会社平凡社
・ 嘉永五年東北 吉田松陰「東北遊日記」抄-有限会社無明社出版
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