縄沢宿:歴史・概要

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概要・歴史・観光・見所
縄沢宿(越後街道)概要: 地名の由来は野沢盆地が湖だった時代に船継ぎ場だった事から船繋沢と呼ばれ、天正年間(1573〜1593年)に生江浩春が土着し開墾した際に「綱沢」に改められ、寛永年間(1624〜1645年)に越後街道(会津街道)の宿場町として周辺にあった上町集落と侍屋敷集落が移され、正保年間(1645〜1648年)に「縄沢」に改められました。家屋は概ね20軒から30軒と比較的小さな宿場町でしたが村境が曖昧だった為、隣村の松尾村との境界争いの際には怪我人が多数出る程で会津藩(本城:鶴ヶ城)の調停の結果、「鉄火之可為勝負(真っ赤に焼けた鉄棒を早く握り取った方が勝ちとする、所謂、鉄火裁判と呼ばれるもので、中世では土地の境界争いで度々行われました。会津藩も役人が境界線や伝見聞など調査しましたが判明せず、やむを得ずの裁きとなりました)」によって決着が図られました。結果、縄沢宿の青津次郎右衛門が勝利し、負けた松尾村の清左衛門は斬首され首・胴・足に分断されると、新たに設けられた境界線上に「胴塚」、「首塚」、「足塚」の3箇所に葬られたと伝えられています。集落外れに鎮座する兜神社は天喜5年(1057)、前九年合戦(奥州の豪族安倍氏の反乱)の際、源義家が当地で兜を脱いで休んだところ、兜が石化したとされ、その石が「兜石」と呼ばれ信仰の対象になったと伝えられています。

縄沢宿
縄沢宿:町並み
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