片門宿:歴史・概要

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概要・歴史・観光・見所
片門宿(越後街道)概要: 片門宿(福島県会津坂下町)は越後街道(会津街道)の宿場町で、只見川の越後方面側の川待宿として繁栄し、名称に由来は只見川に沿って片側だけに町割された事に起因するとされています。。古くから交通の要衝だったとされ、鎌倉幕府第5代執権北条時頼が片門宿を訪れた際、渡し守だった塩田家に対し安堵状が発布され、船頭が余りにも素早く只見川を渡った為、「早川」ぼ姓を授けたとの伝承が残っています。芦名家の時代にも片門の渡しは注視され延徳3年(1491)には渡しに関する法が定められ、永正3年(1506)には芦名盛高(芦名家13代当主)が渡し守に対し安堵状が発布されています。

文化的にも天正年間(1573〜1591)に片門宿の住民赤城平七が開基となり長龍寺が創建され、源益和尚により曹洞宗の寺院として寺観が整えられたとされます。その後、洪水などで大破し荒廃しましたが嶺薫和尚が再興し、本尊の木造薬師三尊は高寺の八薬師に数えられるなど信仰の対象となり木造薬師三尊及び十二神将立像(合計15躯・薬師如来座像:鎌倉時代末期作、像高135cm、欅材、一木造・日光、月光菩薩立像:延元元年:1339年作、像高146cm、147cm、欅材、一木造・十二神将立像:南北朝時代以前、像高約65cm)が昭和51年(1976)に福島県指定重要文化財に指定されています。

戊辰戦争の際には会津軍にとって只見川が越後側の最終防衛ラインと想定され、対岸の船渡宿に布陣し、対する新政府軍は片門宿に布陣して激しい砲撃戦が繰り広げられました。新政府軍は苦戦して10日間釘付けとなりましたが、援軍が会津軍の背後を突いた事で勝利を収め一気に鶴ヶ城まで進軍しています。

片門の渡しは江戸時代後期以降は簡易な橋が架けられ明治元年(1868)には舟橋が新調、明治11年(1878)にはイギリス人女性紀行家イザベラ・バードもこの船橋を渡り著書である「日本奥地紀行」に「私たちは阿賀野川という大きな川にかけてある橋をわたったが、こんなひどい道路にこんなりっぱな橋があるとは驚くべきことである。これは十二隻の大きな平底船から成る橋で、どの船も編んだ藤憂の丈夫な綱に結んである。だからそれが支えている平底船と板の橋は、水量が一ニフィートの増減の差ができても、自由に上下できるようになっている。」と記載しています(イザベラ・バードは只見川を阿賀野川と誤認しているようです)。又、宿場の外れには明治維新後に若松民生局の監察方頭取に就任した久保村文四郎が帰国中に旧会津藩士によって惨殺された束松事件の現場があり案内板が建立されています。

片門宿
片門宿:町並み
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