野沢宿:歴史・概要

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概要・歴史・観光・見所
野沢宿(越後街道)概要: 野沢盆地は古くは湖底だったとされ、野沢宿(福島県西会津町)の鎮守である熊野神社や、古刹である如法寺、綱沢(縄沢宿)の地名の由来など多くの伝承が伝わっています(銚子の口が決壊した事で水が引いたとされます)。鎌倉時代になると地頭として当地に就任してきた荒井信濃守頼任が館を設けて支配し、戦国時代には芦名氏の勢力下に入り、文亀から大永年間(1501〜1527年)に野沢原町出身の6人の有力者により新たな町割が行われました。江戸時代に入ると越後街道(会津街道)の宿場町と整備され、阿賀野川舟運の要衝である津川宿鶴ヶ城の城下町とがそれぞれ1日の行程だった事から村上藩(本城・村上城)の藩主や新発田藩(本城・新発田城)の藩主は野沢宿に本陣を設けて宿所として利用しました。

会津藩も野沢宿を重要視し野沢代官所や郷蔵などを設け、さらに六斎市(3里四方の市を禁止し3日・8日・13日・18日・23日・28日の6日間野沢で市が開かれた。)が開催されるなど当地方の行政、経済の中心地として発展し越後街道(会津街道)三大宿場に数えられました。幕末には野沢宿出身の渡部思斎が私塾である「研幾堂」を開設、法政、経済、文学、医学を教え明治初期に多くの人材を輩出し東北の松下村塾とも言われました。戊辰戦争の際は当初、会津軍の陣が置かれ、藩主松平容保が野沢本陣で慶応4年(1868)8月1日から13日、越後戦線の指揮を執っています。宿場内にある常楽寺には戊辰戦争で戦死した会津藩士1名(山本定平)、長岡藩士2名(岡村半四郎・中田良平)、薩摩藩士1名(吉田與藤二清次)の墓碑が建立されています。又、周囲には大山祇神社や如法寺(鳥追観音堂)といった名刹があり、多くの参拝者や信者達も野沢宿を利用しました。

如法寺(鳥追観音): 如法寺(鳥追観音)は天平8年(736)、行基菩薩が全国巡錫で当地を訪れた際、たまたま宿を借りた農夫婦が子宝に恵まれずさらに、鳥の被害により農作物の収穫もままならない状況を見て、一宿一晩の恩として、行基菩薩が自ら彫刻した聖観音を授けました。すると、その聖観音の御利益はすさまじく、翌年には待望の赤ん坊を授かり、鳥の被害も無く大豊作になりました。その話は瞬く間に他の村々にも伝わり「鳥追観音」や「ころり観音」として広く信仰されるようになったと伝えられています。大同2年(807)、坂上田村麻呂が当地を訪れ鳥追観音の話を耳にすると、名僧として知られた徳一大師を招いて如法寺を創建、その際、本尊の聖観音像に行基菩薩縁の鳥追観音を胎内仏として収め益々信仰が広がりました。会津三十三観音霊場番外別格総結願所。会津ころり三観音会津六詣出。会津五色不動。

大山祇神社: 大山祇神社は宝暦9年(778)に勧請されたのが始まりとされる古社です。祭神である大山祇命は野沢の山々の守護神で水源に鎮座している事から水を司る神として信仰されています。岩長比売命は大山祇命の娘神で、神話では瓊々杵尊に岩のように永遠に生きながらえるようにと嫁に出したものの、姫は姿形が岩に似て醜かった為に送り返されたとの故事に因み健康長寿に御利益があるとされます。木花咲耶姫命は大山祇命の娘神で、岩長比売命の妹神で、姉とは異なり花のように美しく瓊々杵尊に気に入られ3柱の神々を生んだ故事から子宝安産に御利益があるとして信仰されています。会津六詣出。

野沢宿
野沢宿:町並み
野沢宿:町並み
野沢宿:町並み 野沢宿:町並み 野沢宿:町並み 野沢宿:町並み
野沢宿(西会津町):名所・見所
大山祇神社
大山祇神社
大山祇神社
如法寺
如法寺(鳥追観音堂)
鳥追観音堂
円満寺観音堂
円満寺観音堂
円満寺観音堂
 
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