鶴ヶ城(会津若松城)概要: 鶴ヶ城は当初は黒川城と称し元中元年(南朝年)、至徳元年(北朝年:1384年)に芦名家7代当主芦名直盛が最初に築城したと言われています。芦名家は南奥羽を制する大大名に成長しますが戦国末期になると次第に陰りが見え始め天正12年(1584)に芦名盛隆が家臣である大庭三左衛門に暗殺されるとさらに混乱を招きます。さらに、跡を継いだ亀若丸(亀王丸)は幼少で天正14年(1586)に僅か3歳で死去、混乱に混乱を重ね結果的には佐竹義重の次男佐竹義広を当主として迎えました。
しかし、家臣団は伊達派、佐竹派に別れ団結力に欠け、天正17年(1589)に米沢城(山形県米沢市)の城主伊達政宗との摺上原合戦で敗れると義広は実家である佐竹氏家頼り江戸崎(茨城県・稲敷市)へ落ち延びていきます。
政宗は居城を米沢城(山形県・米沢市)から黒川城に移し整備を進めますが、天正18年(1590)豊臣秀吉によって行われた小田原攻めに遅参したこと、惣無事令違反を咎められ岩出山城(宮城県・大崎市)に移され、黒川城には蒲生氏郷が伊勢松坂(三重県伊勢市)から入城します。
蒲生氏郷は織田信長の娘冬姫を貰い受けた名門で、豊臣秀吉に臣従し数々の功をたてた事で42万石(後92万石)の大名に取り立てられ、奥州伊達家と関東の徳川家康の抑えとして配されました。
会津地方は交通の要衝だった事から東北地方を治める拠点として重要視され氏郷は文禄元年(1592)に七重の天守閣を築くなど大改修し名称も黒川城から蒲生家出身の地名に因み「若松城」に改称し城下町も相応しい町割が行われました(その後「鶴ヶ城」に改称)。
文禄4年(1595)氏郷が死去すると嫡男蒲生秀行が跡を継ぎますが幼少で家中に不穏な動き(蒲生騒動)があったとして慶長3年(1598)宇都宮城(栃木県・宇都宮市)移され18万石に減封されます。
鶴ヶ城には上杉景勝が春日山城(新潟県・上越市)から120万石で入封し引き続き、伊達政宗、徳川家康の牽制役として重きをなします。同年、秀吉が死去すると、家康は突如法令違反である有力大名同士の血縁関係を次々に結ぶなど不穏な動きを見せた為、石田三成と懇意だった上杉家の執政直江兼続と図り鶴ヶ城の改修と新城となる神指城の築城が進められました。
慶長5年(1600)この動きにより家康は大軍を率いて小山まで進軍しましたが、京都での三成の挙兵を聞き急ぎ兵を引き返し関が原の戦いに挑みました。結果的に関ヶ原で西軍は大敗し景勝は米沢30万石で移封となり、蒲生秀行が再び60万石に加増され鶴ヶ城へ移り会津藩を立藩します。寛永4年(1627)、蒲生忠郷が跡継ぎ無く死去した為改易の危機となりますが忠郷の弟である忠知が特別に継承許され伊予松山城(愛媛県松山市)24万石に減封となります。替わって鶴ヶ城には加藤嘉明が43万5千5百石で入封、嘉明は鶴ヶ城の拡張や天守閣の再建などに尽力し、跡を継いだ加藤明成も引き続き鶴ヶ城や城下町の整備に努め現在に近い形になりました。
寛永20年(1643)に御家騒動により改易となり、替わって2代将軍徳川秀忠の庶子で3代将軍徳川家光の異母弟である保科正之が山形城(山形県山形市)から23万石で入封、以後、保科(松平)家が会津藩が藩主を歴任しています。
慶応4年(1868)の戊辰戦争の際には白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加し、中心として新政府軍と激戦を繰り返し、約一ヶ月の間篭城しますが明治元年(1868)9月22日に降伏し明治7年(1874)に鶴ヶ城は廃城となり、多くの建物は破却されました。現在は若松公園として整備され「若松城跡」として昭和9年(1934)に国指定史跡に指定されています。
【 会津城(鶴ヶ城)の縄張り 】: 会津城は梯郭式の平山城で、本丸を中心に北側には帯郭、内堀を経て北出丸、東側には二の丸、三の丸、西側には西出丸、南側は湯川(黒川)を天然の外堀に見立てられ、武家地を取り囲むように巨大な土塁と外堀が周囲を固めました。江戸時代当初の会津城には本丸には5層6階(蒲生家時代は7層)の天守閣の他に御三階櫓1基、2層櫓3基(茶壷櫓・月見櫓・干飯櫓)、帯郭に2層櫓4基(御弓櫓・北角櫓・弓櫓・西南櫓)、北出丸に2層櫓2基(北東角櫓・北西角櫓)、西出丸に2層櫓2基(西南角櫓・西北角櫓)が備えられていました。城門は本丸には表門(鉄門)、裏門、帯郭には廊下橋門、太鼓門、西中門、二の丸には南門、東門、北出丸には追手門、西門、西出丸には内讃岐門、西大手門が配されていました。
【 会津城(鶴ヶ城)の城下町 】: 会津城の城下町は外郭と湯川(黒川)内部は略、会津藩士が住まう武家地で、その北側に商人町を設け、さらに商人町を取り込むように社寺が配置されています。商人町の中心である札辻は会津五街道とも称された、会津西街道(下野街道:会津城下〜日光街道今市宿)、越後街道(会津城下〜新発田城下)、米沢街道(会津城下〜米沢城下)、二本松街道(会津城下〜二本松城下)、白河街道(会津城下〜白河城下)の基点となり南方に会津西街道(下野街道)、西方に越後街道、米沢街道、東方に二本松街道、白河街道の街道筋が延びています。
商人町は小路は方形状に区画されていますが中路は少しずつ道筋がずらされ敵兵が直線的な軍事行動が取れない工夫がなされ、街道筋の城下際には足軽屋敷、商人町の北側には寺院を厚く配置され防衛ラインを形成していました。郭内の北方の大路の際には蒲生氏の菩提寺である興徳寺、西方の大路の際には芦名氏の崇敬社だった諏方神社、郭外東方の大路には藩主の庭園である御薬園がそれぞれの防衛拠点として想定されていたと思われます。
会津藩では由緒ある神社を調べ、諏方神社、伊佐須美神社、磐椅神社、蚕養国神社、心清水八幡神社、西村八幡宮を会津大鎮守六社として選定して篤く庇護し郭内に鎮座した諏方神社は城下の総鎮守、会津大鎮守六社の筆頭とされています。
会津城の北東に位置する飯盛山の山中には宗像神社(厳島神社)が鎮座、別当寺院として正宗寺が祭祀を司り、会津城の鬼門鎮護として歴代城主から崇敬庇護され社運も隆盛し境内には様々な社殿、堂宇が建立されていました。明治時代初頭に発令された神仏分離令とその後に吹き荒れた廃仏毀釈運動により多くの建物が失われた中、旧正宗寺三匝堂(さざえ堂)などが残され威容を誇っています。
歴代会津城主を務めた保科(松平)家は神道だった為、城下町には所謂菩提寺が存在しなく、初代保科正之は福島県耶麻郡猪苗代町見祢山にある土津神社境内に葬られ、2代保科正経から9代松平容保までは会津若松市東山町にある松平家院内御廟に葬られています。
又、鶴ヶ城の唯一の現存遺構として御三階が阿弥陀寺に移築されています。鶴ヶ城は昭和9年(1934)に国指定史跡に指定され(平成5年(1993)に「甲賀町口門跡」、「天寧寺町土塁」、「三の丸堀跡」の三ヶ所が追加指定されています)、平成18年(2006)に日本100名城に、平成2年(1990)に「鶴ヶ城公園」として日本さくら名所100選に選定されています。
鶴ヶ城:上空画像
【 参考:サイト 】
・ フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
・ 日本の城下町2[東北(二)]-株式会社ぎょうせい
・ 東北地方の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 日本の名城・古城辞典-株式会社TBSブリタニカ
・ 日本史跡大辞典1-株式会社日本図書センター
・ 現地案内板-会津若松市教育委員会
・ 現地案内板
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