伊達市: 梁川城

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概要・歴史・観光・見所

梁川城(伊達市)概要: 梁川城は記録的には応永33年(1426)の年号が見られますが、伊達氏の祖が源頼朝による奥州合戦の功で伊達郡を拝領している事から鎌倉時代にはすでに築城されていたと推測されています。伊達氏は梁川城を根拠として勢力を強め、南東北に大きな影響力を持つまでになりました。

大永3年(1523年)には伊達稙宗が陸奥守護に任ぜられ、確固たる地位を確立すると手狭になった梁川城から桑折西山城に居城を移します。天文の乱で伊達氏の居城が米沢城(山形県米沢市)に移され桑折西山城が破却されると梁川城は周辺を支配する支城として重要視され、特に相馬氏に対しての軍事的拠点となりました。

伊達政宗が初陣として相馬氏に対した時も梁川城に入り指揮を取ったとされ、付近にある梁川八幡神社(別当寺:龍寳寺)に戦勝祈願をしています。

政宗が豊臣秀吉の奥州仕置きで岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移されると梁川城は蒲生氏郷、秀行父子の持城となり家臣である蒲生頼郷を配しています。秀行が宇都宮城に移封になり上杉景勝が入封すると家臣が入り、引き続き伊達郡の中心地として重要視されます。

上杉氏は関ヶ原の戦いで西軍に属した事で120万石から30万石に石高が晴らされますが伊達郡は引き続き支配を認められます。寛文4年(1664)に上杉綱勝が跡継ぎを決めないまま死去した事で伊達郡は幕府の天領となり梁川城は廃城、城郭の一部を陣屋とする以外は破却されました。文化4年(1807)からは松前藩が9千石で北海道から転封させられますが文政4年(1821)に再び北海道に戻り、梁川の地は飛地として引き続き松前藩の支配で明治維新を迎えます。

梁川城は梯郭式の平山城で城域は東西約200m、南北約600m、本丸を中心に二ノ丸や三ノ丸が配され、南方と西方には広瀬川、北方には塩ノ川が流れ天然の外堀としています。城下町には伊達家と縁が深い、輪王寺や東昌寺の伽藍跡も発見されており、長く伊達家が支配した名残が見られます。

現在の梁川城は本丸部分は小学校、二の丸が中学校、幼稚園、高等学校、その他が宅地化され多くの遺構が失われましたが、小学校の校庭の一部に中世庭園とされる「心字の池」や土塁や石塁を見る事が出来、昭和57年(1982)に福島県指定史跡及び名勝に指定されています。

梁川城の城内に鎮座する浅間神社(祭神:木花咲耶姫命)は文治年間(1185〜1190年)、伊達朝宗が梁川城を築いた際、城の鎮守社として富士権現の分霊を勧請したのが始まりとされ、歴代城主から崇敬庇護されました。梁川城が廃城になってからも当地に留まり学校の神社として信仰されました。

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 図説 発掘が語る日本史 第一巻 北海道・東北編-株式会社新人物往来社
・ 日本の名城・古城辞典-株式会社TBSブリタニカ
・ 東北地方の名城を歩く[南東北編]-株式会社吉川弘文館
・ 現地案内板-福島県教育委員会
・ 現地案内板-浅間神社氏子会

梁川城:写真

梁川城
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