福島城

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概要・歴史・観光・見所

福島城概要: 福島城の最初の築城は不明ですが杉目太郎行信が当地に境内を構えていた大仏殿を中心に館を構えたのが始まりとされ室町時代には大佛城と称していました(前身は杉妻寺と呼ばれる寺院で宝塔や板碑などが残されています。又、伝説によると天平年間:729〜748年に天台宗の高僧行基菩薩によって大仏殿が造営されたと伝えられています)。

杉目太郎行信は源義経に従った佐藤氏の一族で、姿形が義経と瓜二つだった事から義経の影武者として平泉に随行し、衣川合戦で敗れ自刃したのは杉目太郎行信だったとの伝説が残されています。

中世に入ると福島城は伊達氏の支城として機能し、応永20年(1413)には伊達持宗と懸田定勝が反乱を起こし鎌倉公方と対峙したと言われています。その後、杉目城と改められるも引き続き伊達氏の重要な拠点の1つとして重臣が城代となり、伊達晴宗の隠居所にもなりました。

天正19年(1591)、豊臣秀吉による奥州仕置きで伊達政宗が岩出山城(宮城県大崎市岩出山町)に移封となり、文禄元年(1592)に蒲生氏郷が領主になると信夫郡5万石は蒲生家の与力大名である木村吉清が派遣され、大森城から杉目城に居城を遷した際に福島城と改称します。

慶長3年(1598)に蒲生秀行が宇都宮城(栃木県宇都宮市)に移封になると、吉清は独立した大名に取り立てられ豊後国(現在の大分県)に遷り、代わって上杉景勝が会津若松城会津若松市)に入り、重臣である本庄繁長を1万石で福島城に配しました。

慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでは本庄氏側の兵力の20倍にあたる2万を超える伊達政宗本隊が福島城に侵攻しましたが、繁長はその猛攻を退けるなどの戦果をあげました。

上杉景勝が米沢城米沢市)に移さされると、本多氏、堀田氏と領主が交替したものの城跡に陣屋を築く程度で本格的な城郭ではありませんでした。

元禄15年(1702)に板倉氏が3万石で入封すると板倉重寛、板倉重泰、板倉勝里の三代に渡り福島城は大改修され現在の福島市の根幹となる城下町も整備されました(板倉重泰は僅か就任後僅か数か月で死去している為、事実上、板倉重寛と板倉勝里が大きな功績を果たしています)。

戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に属した為、敗戦後廃城となり板倉氏は三河(愛知県刈谷市:2万石で重原藩を立藩)へ転封させられました。

現在の福島城の本丸、二の丸付近は官庁街となり、平城だった事もありほとんど形状を留めていません。二の丸庭園の跡が旧状が最も感じられる場所で土塁の一部も見る事が出来ます。又、城の鬼門鎮守として北東(艮)に鎮座していた杉妻稲荷神社が明治時代に郵便局の建設と道路拡幅工事に伴い城内に遷座しています。因みに城が築かれる前は杉妻の里の産土神として領民から崇敬されていたそうです。

福島城:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ 日本の名城・古城辞典-株式会社TBSブリタニカ
・ 日本の城下町2[東北(二)]-株式会社ぎょうせい
・ 現地案内板-福島県
・ 現地案内板-福島市・福島県教育委員会
・ 現地案内板-ディスカバー・マイカントリー 福島信夫ライオンズクラブ


福島城:ストリートビュー

福島城:土塁・石碑等・写真

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