須賀川城概要: 須賀川城は中世長く当地を支配した二階堂氏の居城だった城郭で、案内板によると「長松院境内西側の墓地との間に見られる盛り土と窪地は、須賀川城跡の現存する数少ない土塁と堀跡の一部となっています。須賀川城は、鎌倉時代に二階堂氏によって築かれた城で、現在の市街地のほぼ全域が城域となっていました。文政5年(1448)、二階堂為氏が初代城主となって整備され、その後、9代にわたって二階堂氏が城主となり存続しました。しかし、天正17年(1589)、伊達政宗の攻撃を受けて落城しました。須賀川市の奇祭松明あかしの由来となった城跡であり、現在はその面影を留めている所はほとんどありませんが、この土塁と堀跡はが数少ない貴重な遺構として残されているものです。このような土塁や堀跡は、この長松院の北側の神炊館神社と、本丸跡の二階堂神社にわずかに残されているのみです。・・・(後略)」とあります。
二階堂氏は奥州の守護職を務める名門で戦国時代には岩瀬郡を中心に5万7千石を領するになりましたが、戦国末期に伊達家によって滅ぼされています。その後、須賀川城には伊達家に従った石川昭光が城主となりましたが、天正18年(1590)の小田原の陣に豊臣方に参陣しなかった事から改易となり、結局、伊達家の家臣として天正19年(1591)、奥州仕置きで政宗が岩出山城(宮城県大崎市岩出山)に移封されると随行し松山城(宮城県大崎市松山千石)に入っています。変わって蒲生氏郷が鶴ヶ城(福島県会津若松市)に入封、南奥州の領主となり須賀川城には家臣である田丸具直(北畠顕晴)が配されました。慶長3年(1598)に上杉景勝が会津120万石の領主になると千坂対馬景親、二本松右京が須賀川城の城代となり、慶長6年(1601)に蒲生秀行が会津藩主として復権すると家臣である蒲生郷成が須賀川城に入り4万5千石を与えられています。寛永4年(1627)に加藤嘉明が会津藩に入封すると一国一城令もあり須賀川城は廃城となっています。
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