谷地小屋要害(新地町)概要: 谷地小屋要害の最初の築城は戦国時代の永禄年間(1558〜1570年)の頃とされ、相馬盛胤とその子供である相馬義胤が伊達領の最前線拠点の一つとされました。しかし、築城した直後に相馬氏の拠点を新地城に移した為、一時廃城となります。
江戸時代に入ると新地周辺が仙台藩領となり、寛永5年(1628)に亘理要害(宮城県亘理町)館主伊達成実が加増され支配下に組み込みます。
仙台藩は一国一城令後に領内の主要な城郭は破棄されず、名称を「要害」に変えただけで維持された事から谷地小屋要害も重要視されてた事が窺えます。谷地小屋要害は改修され本丸と2ノ丸の2つの郭と2重の堀からなる平城へと改修し、組下の代官を配し対相馬領の最前拠点としました。
戊辰戦争時には仙台藩の本陣が置かれましたが政府軍に緒戦に敗れ、自ら火をかけ敗走しています。要害の跡地はほとんどが水田となり遺構らしいものが見当たりません。要害南側は旧武家地で雰囲気が残っています。
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