新地町(歴史)概要: 新地町の中心部から見ると西側にあたる駒ケ嶺に子眉嶺神社が建立されています。子眉嶺神社は所謂延喜式神名帳に記載されている式内社で新地町が古来から開けていて中央の影響にあった事が分かります。
平安時代末期には平泉(岩手県平泉町)を本拠としていた奥州藤原氏の影響下にありましたが奥州合戦で藤原氏は敗走し家臣の裏切りがあって惨殺されてしまいました。室町時代は福田古舘が築かれ、城主が白河結城氏の家臣である黒木氏だったことから白河結城氏の影響力が新地町まで及んでいた事が分かります。
戦国末期になると新地町一帯が伊達領と相馬領の境界となり両家とも城を築き何度も戦が行われました。天正17年以降は伊達領となり江戸時代に入ると伊達家重臣の亘理要害(宮城県亘理町)城主伊達成実が加増され谷地小屋要害を支配下に置きます。
戊辰戦争時、仙台藩は白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟の中心的立場となり新政府軍と戦闘状態に陥ります。新地町では激戦の1つである駒ヶ嶺口の戦いが慶応4年(1868)8月7日より開始され伊達藩松山隊は敗戦し戦死者27名を数えたとされます。
明治維新後は伊達領内唯一福島県に属する複雑な立場で、現在でもなまりや文化など宮城県に類似する事が多いと言われています。
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