隠津島神社(二本松市)概要: 隠津島神社は福島県二本松市木幡字治家に鎮座している神社です。隠津島神社の創建は奈良時代の神護景雲3年(769)に安積国造の比止称命乃子丈部直継足が勧請したことが始まりとされます。平安時代初期の大同元年(806)、平城天皇の勅願によって弁天堂が建立されたことで神仏習合し隠津島神社弁財天と呼ばれるようになりました。
延長5年(927)に編纂された延喜式神名帳に記載されている式内社隠津島神社の論社で、当社の他、福島県郡山市湖南町福良字福良山に鎮座している隠津島神社と、福島県郡山市喜久田町堀之内字宮に鎮座している隠津島神社がそれぞれ論社となっています。
隠津島神社は歴代領主や為政者から崇敬庇護され前九年の役の際には源頼義、義家父子が戦勝祈願に参拝に訪れ、文明14年(1482)には当時の領主源朝臣家博が大旦那、その他の支援者として大内備前守宗政、大阿弥丸、大内備後顕裕が木幡山弁天堂を造営し、永正10年(1513)には別当寺院だった木幡山治陸寺を大内左京亮乗義が造営、天正5年(1577)には大内備前守と大内太郎左衛門顕徳が木幡山弁天堂を造営しています。
源朝臣家博は住吉山城の城主である石橋義衡とされる人物で斯波氏の一族とされます。大内氏は石橋氏の家臣筋で小浜城の城主となり戦国時代には石橋氏を圧倒する勢力となり三春城の城主田村氏に従っています(伊達家の侵攻により田村家が没落すると帰農したようで、一族の一部が大工集団の棟梁になったようです)。
天正13年(1585)伊達政宗が隠津島神社を焼き討ちした事で天女の尊容一基の宝塔を残しほとんどの堂宇、社宝、記録などが焼失し一時衰退しましたが、江戸時代に入ると会津藩(藩庁:鶴ヶ城)の藩主蒲生氏が庇護し蒲生秀行は数千本の杉を献植しています。
その後は二本松藩(藩庁:二本松城)の藩主が庇護し寛永14年(1637)には加藤明利が境内である木幡山の山林を保護する禁制を発布しています。加藤氏が改易になると代わって入封した丹羽氏から崇敬され延宝2年(1674)には丹羽光重が三重塔を改修、寛政6年(1794)に拝殿、寛政12年(1800)に本殿を丹羽長貴が再建しています。
隠津島神社は早くから神仏習合し別当寺院だった治陸寺は木幡山を御神体とする修験道の拠点として寺運が隆盛し江戸時代には僧坊24坊を擁する大寺院となり周辺地域の天台宗の寺院に大きな影響力を与えました。明治初頭に発令された神仏分離令により別当だった治陸寺と分離し明治3年(1870)に厳島神社に改称、明治35年(1902)に旧社号である隠津島神社に復し明治40年(1907)に県社に列しました。
隠津島神社三重塔は福島県内に残る数少ない三重塔の遺構(隠津島神社・法用寺・高蔵寺)として貴重な事から福島県指定重要文化財に、本殿、拝殿、木幡山門神社(旧隠津島神社本殿)は二本松市(旧東和町)指定有形文化財、木幡の大杉は国指定天然記念物にそれぞれ指定されています。祭神は隠津島姫命、田心姫命、湍津姫命。
隠津島神社の文化財
・ 本殿−寛政12年−三間社流造−二本松市指定文化財
・ 拝殿−寛政6年−入母屋,桁行7間,梁間7間,唐破風向拝−二本松市指定
・ 木幡山門神社−寄棟、桁行3間、梁間3間−二本松市指定文化財
・ 隠津島神社境内全域−福島県指定名勝及び天然記念物
・ 木幡の大スギ−推定樹齢800年,樹高20m,幹周9.3m−国指定天然記念物
・ 木幡の幡祭り−国指定重要無形民俗文化財
・ 三重塔−文明4年−三層宝形造、高さ約20m−福島県指定文化財
・ 木幡山経塚群(6基)−12世紀−福島県指定史跡
・ 銅鐘−明暦4年-総高130p,重量1125s-二本松市指定有形文化財
・ 元亨の板碑-阿弥陀如来,観音菩薩,勢至菩薩の梵字-二本松市指定
・ 天明為民の碑−二本松市指定文化財
隠津島神社:上空画像
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