二本松市(歴史)概要: 二本松市の歴史は古く南北朝時代、北朝側だった畠山高国が奥州探題として下向し、孫の満泰が霧ヶ城(二本松城)を築き本拠としました。畠山氏の支配は11代に及び15世紀からは地名をとって二本松氏を名乗り大名として確立します。
二本松氏は二本松市を中心に安達郡の西部から安積郡北部一帯を治め3万石から4万石の支配領域を持っていましたが隣接する伊達氏や芦名氏などの大大名に大きな影響力を受けるようになります。
天正13年に伊達氏との関係が悪化し、講和の仲介に入った伊達政宗の父である輝宗を拉致した事で大きく戦局が二本松氏に傾きます。小競り合いの中で輝宗は自軍から撃ち殺されるといった悲劇もあり逆上した政宗は二本松城を総攻撃しますが城を落とすことが出来ず二本松氏が勝利します。
二本松氏の同盟を組んだ佐竹氏は周辺大名を見方に引き入れると3万の軍勢をまとめ上げ人取橋で伊達軍を打ち破り勝利を得ますが翌日兵を引いた事で伊達軍に決定的な打撃を与える事が出来ませんでした。
伊達氏はその後も二本松城を攻めますが落とす事が出来ず膠着状態が続きますが天正14年に二本松国王丸が自ら城に火を放ち芦名領に逃れた事で二本松氏による支配が終焉します。二本松市周辺は伊達氏が治めますが奥州仕置きにより岩出山へ居城を移らされると、その後は蒲生氏、上杉氏、加藤氏が領し近世を迎えます。
寛永20年に丹羽氏が10万石で二本松藩を立藩すると二本松城の城郭の整備と城下町の建設など大規模な開発により今日の二本松市に繋がる町づくりを展開していきます。
特に奥州街道沿いには多くの町屋や旅籠などが建ち並び活気を呈していたとされます。現在は古い建物が散見する程度ですが枡形などの町割りや二本松神社や称念寺などの古社が見られます。戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に参加した事で二本松市一帯は戦場となり多くの被害が生じ二本松城は落城、二本松少年隊が戦場に投入されるなど悲劇が生まれました。
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