弘安寺(中田観音)概要: 中田観音の別当である普門山弘安寺は福島県大沼郡会津美里町米田字堂ノ後甲に境内を構えている曹洞宗の寺院です。案内板によると「 文永11年(1274)長者江川常俊が娘の菩提を弔うために十一面観世音菩薩立像を鋳造し愛娘の心が宿るここ中田の里に納めたといわれる。次いで弘安2年(1279)富塚伊賀守盛勝公が伽藍を造営し普門山圓通閣と称した。その後普門山弘安寺と改名され、観音堂におさめられて現在に至る。 会津美里町教育委員会 」とあります。
弘安寺(中田観音)に伝わる伝説によると、鎌倉時代、当地の実力者だった江川常俊(江川長者)は富と名声を得たものの、子宝に恵まれず毎日法用寺(福島県大沼郡会津美里町雀林)に子宝祈願を行っていました。暫くすると念願成就し可愛らしい女児を授かり、常姫と名付けられすくすくと美しい娘に成長しました。
文永10年(1273)、法用寺の例祭に常姫が出かけると、偶然出会った当地の地頭である富塚伊賀守盛勝に一目惚れし、その恋煩いが原因で重篤となり帰らぬ人となりました。江川常俊は娘の菩提を慰める為に、十一面観世音菩薩立像(中田観音)を鋳造し寒川村の寺院に安置しようとしたところ、盛勝の屋敷が近い当地で運ぶ事が困難になりました。
常俊は娘の願いと悟り文永11年(1274)に当地に観音堂を造営し本尊として納めました。弘安2年(1279)、その話を聞いた盛勝は下野国(現在の栃木県)出身の厳知和尚を招いて弘安寺を開山、正安元年(1299)に盛勝が亡くなると弘安寺の境内に葬られ戒名「弘安寺殿玄翁宗頓居士」が授けられたと伝えられています。
弘安寺(中田観音)は江戸時代に入ると会津藩主の祈願所として庇護され野口英世の母シカが毎月参拝に訪れた事でも知られています。
又、保管庫には弘安寺旧観音堂厨子(弁天堂)が安置されて異彩を放っています。旧観音堂厨子(一間社、唐破風造、木端葺、真壁造板張、高欄、浜縁、会津地方最古級の厨子)は寛永19年(1642)〜慶安元年(1646)に観音堂が修復工事中に堂外に出され弁天堂になったとされる御堂建築で大変貴重な事から昭和35年(1960)に国指定重要文化財されています。
弘安寺の本尊である十一面観世音菩薩立像(文永11年:1274年制作、金銅仏、像高187センチ)と脇侍である不動明王立像(金銅仏、像高95.1センチ)と地蔵菩薩立像(金銅仏、像高93.9センチ)は鎌倉時代の金銅仏で制作年が明確、意匠に優れ、保存状態が良く大変貴重な事から昭和25年(1950)に国重要文化財に指定(旧国宝)されています。
中田観音堂は木造平屋建て、二重入母屋造、銅板葺、平入、正面唐破風向拝付き、外壁は真壁造り板張り、向拝木鼻には象と獅子の精緻な彫刻が施されています。山門は寄棟、桟瓦葺き、三間一戸、八脚単層門、左右には仁王像安置、正面には奉納された大草鞋が掲げられています。
会津三十三観音霊場第30番札所(札所本尊:十一面観音・御詠歌:巡り来て四方の千里を眺むればこれぞ会津の中田なるらん)。会津ころり三観音(中田観音・立木観音・鳥追観音)。会津六詣出(大山祇神社・伊佐須美神社・弘安寺:中田観音・恵隆寺:立木観音・福満虚空藏尊圓藏寺・如法寺:鳥追観音)。会津十二薬師霊場第9番札所(札所本尊:中田薬師如来)。山号:普門山。宗派:曹洞宗。本尊:十一面観音。
弘安寺(中田観音):上空画像
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