会津美里町: 向羽黒山城

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概要・歴史・観光・見所
向羽黒山城(会津美里町)概要: 向羽黒山城は案内板によると「 戦国時代に伊達氏と並び称された芦名氏が築いた東北地方最大級の山城跡で、当時の政治・文化・社会を考える上でも貴重な遺構です。十六代芦名盛氏は黒川城(現若松城)を居城としながらも、本格的な山城として、1561年(永禄4年)、ここ岩崎山(向羽黒山)に築城を始め、八年の歳月を費やし1568年(永禄11年)完成させました。芦名氏滅亡後も伊達氏、蒲生氏、上杉氏の武将達の攻撃的城としての機能が続き、関ヶ原の合戦後1600年(慶長5年)廃城となりました。城跡の遺構として来る曲輪・虎口・土塁・切堀・石垣等々、中世城郭を知る貴重な姿が極めて良好な状況で残っています。 会津美里町教育委員会 」とあります。

向羽黒山城は永禄11年(1568)に芦名家16代当主芦名盛氏によって本城である黒川城(鶴ヶ城)の支城、又は詰城として築かれました(向羽黒山城が築かれる以前は小田山城が鶴ヶ城の詰城を担っていました)。盛氏は越後地方の一部や北関東一部まで進出し、芦名家最大版図を広げた人物で、黒川城(鶴ヶ城)の南方の最終防衛ラインと考えていたのかも知れません。特に城の西側には後に会津西街道下野街道)と呼ばれる日光と会津地方を結ぶ街道、東側には阿賀野川が流れている交通の要衝だった事もあり、軍事拠点としては最適地だったと思われます。当時の向羽黒山城は実城、中城、外構えと堅固な城郭として知られ城下町には2千余戸の家屋が建ち並び活況を呈していたとされます。しかし、芦名氏が天正17年(1589)の摺上原の戦いで伊達政宗に敗れ常陸国(現在の茨城県)に逃れた為、向羽黒山城も伊達家に接収されたと思われます。天正3年(1598)に上杉景勝が鶴ヶ城に入ると改修が行われ、慶長5年(1600)に発生した関ヶ原の戦いでも重要視されましたが戦場になる事もなく上杉家が降伏、慶長6年(1601)に廃城となっています。

向羽黒山城は標高408mの岩崎山全域に築かれた中世の山城で東西約1.4キロ、南北約1.5キロ、山頂付近に設けられた一曲輪(本丸)を中心に二曲輪(二の丸)、三曲輪(三の丸)、弁天曲輪、水手曲輪、御茶屋場、北曲輪(盛氏屋敷)と主要な郭があり、要所には虎口、石垣、堀切、土塁、竪堀などが配され一大要塞化されました。向羽黒山城は平成13年(2001)に国指定史跡に指定され、平成29年(2017)に続日本100名城に選定されています。

向羽黒山城:写真

向羽黒山城
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