いわき市概要: いわき市の歴史は古く律令政治の中陸奥国に属し、北側が磐城郡、南側が菊多郡が置かれました。根岸遺跡(いわき市平下大越)と郡遺跡(いわき市勿来町窪田)が当時の郡役所だったとされ、陸奥国府だった多賀城(宮城県多賀城市)を結ぶ街道には勿来関を設けるなど古くから中央との繋がりがあった事を示しています。
養老2年(718)には陸奥国から分国した石城郡、標葉郡、行方郡、宇田郡、亘理郡、曰理郡と常陸国の菊多郡の6郡が石城国を形成してしましたが蝦夷の氾濫などで北方が混乱すると再び陸奥国に合併しています。
平安時代には磐城臣氏が国造として派遣され積極的な国造りを展開し多くの公共事業が行われ、その後いわき市周辺の荘園領主となった岩城氏は平泉(岩手県平泉町)を本拠としていた奥州藤原氏から妻を迎えるなど領土の安定を図りながら白水阿弥陀堂(いわき市内郷白水町)などの文化事業なども行っています。
中世に入ると岩城氏が台頭し、戦国時代には伊達氏や佐竹氏などの大大名に囲まれながら石高を12万石まで広げています。伊達氏との対立が深まる中、豊臣家から庇護が強かった佐竹氏と接近し無事小田原の陣の参加を果し領地が安堵されますが、関ヶ原の戦いでは枷となり佐竹氏と共に東西中立を保ち改易(佐竹氏は54万石から秋田藩21万石へ減封、岩城氏は川中島1万石で大名へ復帰後亀田藩(秋田県由利本荘市岩城亀田)2万石として移封されます。)させられます。
江戸時代に入った慶長7年(1602)に外様大名だった伊達家や相馬家を抑える役目を負い譜代大名の鳥居忠正が10万石で平藩を立藩し現在地に磐城平城(いわき市平)を築き現在のいわき市の祖となる城下町を建設します。
しかし、慶長10年に忠正が山形城(山形県山形市)へ転封になるといわき市周辺は平藩の他に湯長谷藩1.5万石、泉藩2万石、天領など小藩に分割されました。平藩は内藤氏(7万石)、井上氏(6万石)、安藤氏(5万石)と藩主が短期間に代わり一定の藩風が定着しにくい環境となりました。
安藤氏の時代に白石城(宮城県白石市)で調印された奥羽越列藩同盟に参加し、明治政府軍と対峙、敗戦を重ねた為、自ら自ら城に火を放ち敗走し、維新後に平城は廃城となっています。
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