温泉神社(いわき湯本)概要: 温泉神社は福島県いわき市常磐湯本町三凾に鎮座している神社で、案内板によると「当社は41代天武天皇2年(西暦674年)初代神主小子部宿弥左波古直足が宮仕いしてより1320年、56代清和天皇貞観5年(西暦863年)10月29日従5位下の神階を授かる、1130年前なり、それより42年後60代醍醐天皇延喜5年(西暦905年)延喜式神名帳に登載せらる。1088年前なり、これ延喜式内社と言われる所なり此処より西方5キロメートル霊峰湯ノ岳(600メートル)を神体山としている。鎮座地は三遷して慶安4年(1651年)今より342年前此の三函の丘に遷座して現在に至っている。 」とあります。
いわき湯本温泉神社は室町時代末期に成立したとされる「神幸由来記」によると、大己貴大神が御子神等と共に日本武尊が東征する為の皇軍の先陣として導き菊多国多邪湊(現在の小名浜港)に上陸しました。大神はそのまま北上し瀧尻川(現在の藤原川)に到着すると、上流に温泉地があり、私の弟である少彦名命が祭られているから、尊にも会ってもらいたいとの旨を話しました。温泉地に到ると、大神はこの地に留まり少彦名命と共に祭られるようになったと記されています。
一般的な解釈としては、温泉神社は元々少彦名命の1柱しか祭られていなかったものの、日本武尊が東国平定で当地を訪れた際に大己貴大神を勧請合祀したと考えられています。日本武尊の東国平定の経路は幾つか想定されますが、この伝承を信じれば、太平洋側の近代でいう「陸前浜街道」を北上した事になります。
又、いわき市常磐白鳥町に伝わる伝承によると、景行天皇の時代に石城の国(現在のいわき市)に賊徒が砦を築いて村人(アイヌ)達に繰り返し悪さをした為、天皇は武内宿祢を派遣し調査させたところ、賊徒は地中を棲み処とし、官兵の目を盗み強盗や略奪を行い、時には官兵に矢を射かける事があると報告が上がりました。
天皇は早速、日本武尊に討伐を命令し、尊は大軍を率いて小名浜沖へ到着。探りを入れたところ泉の砦には巨人が守備し落とすことが容易では無い事が判った為、そこを避け湯ノ岳に麓まで迂回したところ、岸に多くの白千鳥が泳いでいました。
尊は吉兆と悟り、そこから上陸し周辺の砦を次々と撃破し賊徒を討伐出来たと伝えられています。この伝承から「白鳥町」、本陣を敷いた高台は「勝丘」の地名の由来になったそうです。※伝承ではアイヌ人となっていますが、蝦夷、又は俘囚の事と思われます。
平安時代初期には徳一大師が巡錫で当地を訪れたようで、温泉神社の境内に一宇を設けると「戎・定・慧」の三箱を納めたとの伝承から地名「三箱」の由来になったとも云われています。
温泉神社は由緒上は貞観5年(863)10月29日に従五位下の神階を授かる旨が記され、年号から推察すると平安時代の歴史書の1つである日本三代実録に記載されているはずですが、その名を見る事は出来ませんでした。個人的には日本三代実録に貞観5年(863)10月7日に授下野国従五位上勳五等温泉神従四位下と記されてる那須湯本温泉(栃木県那須郡那須町に)の守護神である温泉神社の対抗意識から創出されたものでないかと思います。
ただし、延長5年(927)に成立した延喜式神名帳に式内社として記載されている磐城郡の温泉神社は当社以外に該当する神社が存在しな事から比定され、歴史ある神社である事は間違いありません。
しかし、江戸時代初期の火災により社殿が焼失し、棟札に書かれていたという由緒も類焼した為、これ以前の歴史は不詳、室町時代末期に成立したとされる「神幸由来記」も、焼失後に復したものと考えら正確性は薄いと思われます。
温泉神社本殿は宝暦9年(1759)に造営された入母屋、銅瓦棒葺き、一間社の建物で、細部の彫刻など、見るべきものが多く棟札8枚と扁額1枚と共に平成17年(2005)、いわき市指定有形文化財(建造物)に指定されています。
いわき湯本温泉の鎮守、祭神は大己貴命・事代主命・少彦名命。延喜式神名帳で記載されている温泉神を祀る神社は10社しか無く「いわき湯本温泉」を道後温泉(愛媛県松山市)、有馬温泉(兵庫県神戸市)と共に日本三古湯に数える人もいます(有馬温泉は日本書記に631年に舒明天皇が利用、道後温泉は伊予国風土記逸文で596年に厩戸皇子(聖徳太子)が利用したと記載されています。
社伝では那須温泉は630年に開湯、南紀白浜温泉は日本書記に658年に斉明天皇が利用したとあります)。又、式内社で、明確に温泉神社として記載されているものは那須温泉神社(栃木県那須町)、鳴子温泉神社(宮城県大崎市鳴子町)、いわき湯本温泉神社の3社しかありません。
温泉神社:上空画像
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