桑折町(歴史)概要: 桑折町の歴史は古く文治5年(1189)に奥州合戦の功により常陸入道念西が伊達郡を与えられこの地に居を構えた事が始まりとされます。常陸入道念西は伊達氏の始祖とされる人物で周辺地域に大きな影響力を持ちました。
その後、伊達氏の本拠は梁川城へ移りますが天文元年(1532)に伊達稙宗の代になると桑折町が交通の要所で軍事的拠点となる為、西山城を改築し居城としています。
天文11年(1542)から所謂「天文の乱」と呼ばれる伊達氏の家督争いが発生し周辺の大名を巻き込んだ大規模な内乱が7年間続き、西山城を中心に桑折町一帯が戦場となり何度を戦が繰り広げられます。天文17年(1548)に室町幕府の調停を受ける事で終結し、伊達氏は本拠を米沢城に移し、西山城は廃城となります。
奥州仕置き後の桑折町は短期間に支配が次々に変わる土地柄となり、蒲生氏、上杉氏と続き、寛文4年(1644)に上杉氏が跡目を決めていなかった事から伊達郡を取りあげられると天領となります。延宝8年(1680)には本多忠国が15万石でこの地に配されますが2年後に姫路に転封になった為、再び天領となり、元禄13年(1700)には松平忠尚が2万石で入ります。
半田銀山の開発が盛んになる幕府から重要視されと延享4年(1747)から桑折町一帯は佐渡奉行の支配下に置かれ、寛延2年(1749)からは代官所支配となり明治維新を迎えます。
桑折町は何度も支配者が交代した事もあり武家文化より、奥州街道と羽州街道が交差する地理的有利な条件より多くの文化が流入し俳諧などが盛んとなり桑折出身の俳人を多く排出し"田植え塚"や"柳の句碑"などの史跡も残っています。
明治維新後の桑折町は交通の要所と周辺の経済的中心地だった事から伊達郡役所などの施設が設けられ政治的的にも重要な地位に位置づけられました。
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