半田銀山遺跡(女郎橋)概要: 半田銀山は古くは大同3年(807)に発見されたと伝えられています。本格的な開発は寛文年間(1661〜)に上杉綱勝が家臣である伊達平十郎と栗林鋪に命じて掘削を開始し日本有数の銀山へと成長していきます。
特に米沢藩が跡目相続で石高を大幅に減らされると半田銀山周辺は幕府の直轄地として支配し、銀山は御直山として奉行所を設置、最盛期には工夫1326人、床屋(精錬所)41軒があり、それに附随して多くの商店や施設が建てられ、佐渡金山、生野銀山とともに日本三大鉱山と呼ばれ幕府の財政に大きな影響を与えました。
江戸時代末期の元治元年(1864)には銀山の産出が大きく減産した事で直山が解除され、慶応3年(1867)からは早田傅之助が再び再開、明治3年(1870)に火災などあり一時閉山しました。早田傅之助は北半田村の名主である共に商人で山師でもあり、半田銀山の近くに設けられた御免町は早田傳之助家が中心となり多くの商人で軒を連ねたそうです。
明治7年(1870)からは政商五代友厚、日本鉱業と近代化が図られ一時増産しましたが昭和25年(1950)に半田銀山は閉山しています。
女郎橋跡は半田銀山が近代化を図る際、鉱山と精錬所を結ぶトロッコの橋脚の跡で、丁度真下に羽州街道を横切る形になっています。現在でも橋脚両端には石垣が残り当時様子を伝える数少ない遺構として大変貴重なものとなっています。
半田銀山は日本三大銀山(半田銀山・石見銀山(島根県大田市)・生野銀山(兵庫県朝来市)・院内銀山(秋田県湯沢市)・延沢銀山(山形県尾花沢町・銀山温泉))とされます。
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-桑折町教育委員会
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