追分(奥州街道・羽州街道)概要: 桑折宿は東北地方の根幹を成す2つの街道、奥州街道と羽州街道の追分があった宿場町です(羽州街道は久保田藩や庄内藩などの出羽諸藩や弘前藩などが参勤交代で利用した街道で五街道である奥州街道に準じるものとして重要視されました。理由には諸説あるそうですが出羽諸藩は伊達領を忌嫌っていた節があり、多少遠回りでも桑折宿から分岐する羽州街道を利用しました)。その為、本陣や旅籠などの施設の他にも多くの物資が運びこまれた事で商業が発達し、それに附随するように多くの文化が流れ込みました。軍事的にも重要視され、戦国時代には桑折西山城を伊達家が一時本拠とし、江戸時代には福島藩主酒井家が桑折西山城に本拠を移す計画もありました。江戸時代に入ると俳諧が盛んとなり桑折出身の俳人を多く排出し法円寺境内に建立されている「田植え塚」にはその名残が感じられます。桑折追分には道標(宝永5年:1708年建立、「右 奥州仙台道」、「左 羽州最上道」)の他にもト而翁の悼み柳の句碑(安永8年:1780年に詠まれた、「夕暮れに心の通う柳かな」)が建てられなど当時の桑折俳壇の一端を見る事が出来ます。追分は近年になってポケットパーク的に整備されています。
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