霊山神社

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概要・歴史・観光・見所

霊山神社(伊達市)概要: 霊山神社は福島県伊達市霊山町大石字古屋舘に鎮座している神社です。霊山神社の創建は明治14年(1881)に南北朝時代に霊山一帯を本拠とした北畠親房(大納言)・北畠顕家(鎮守府大将軍・陸奥大介)・北畠顕信(鎮守府将軍・陸奥介)・北畠守親(大納言・陸奥国司)を祭神としたのが始まりとされています。

明治18年(1885)に別格官幣社に列せられ建武中興十五社の一社に数えられています。

霊山神社が境内を構える霊山は平安時代初期に天台宗の高僧として知られる慈覚大師円仁が開山したと伝えられ、山頂付近には護摩壇などの遺構が残されている事から山岳修験の信仰の山として栄えていた事が窺えます。南北朝時代の延元2年/建武4年(1337)、南朝方の有力武将で鎮守府将軍である北畠顕家が防衛力の劣る多賀城を放棄して当地に霊山城を築城し陸奥国府を遷しました。

その際、後醍醐天皇の第7皇子で陸奥太守義良親王(後の南朝の第2代天皇:後村上天皇)を擁して南朝方の一大拠点として整備しました。霊山城は正平2年/貞和2年(1347)に北朝方の奥州管領吉良貞家の侵攻により落城、応永年間(1394〜1427年)に廃城となています。

江戸時代後期の文化14年(1817)に陸奥白河藩第3代藩主松平定信が北畠顕家の顕彰を称え現在の日枝神社境内に霊山碑(高さ147cm、幅84cm、厚さ30cm、霊山町指定文化財)を建立し霊山神社創建の前身となっています。

明治元年(1868)には中山雪堂(米沢藩の儒者)や西尾元詢(医師)などが南北朝時代に後醍醐天皇方である南朝の為に尽力した北畠家を祭る神社の創立運動が起り、明治9年(1876)の明治天皇の東北巡幸した際に鎮座地が決定し、明治13年(1880)に霊山神社の社殿が造営されました。

明治時代初期の神官は旧会津藩の筆頭家老西郷頼母が勤めました。北畠顕家は建武の新政で功があった事から陸奥の国司となり南北朝時代には南朝側の代表する武将として奥羽地方の南朝側の中心として支配を固めた人物です。

顕家は建武4年(1337)には国府を多賀城(宮城県多賀城市)から霊山に移し陸奥国の中心となりましたが、暦応元年(1338)に和泉石津合戦に戦死すると弟の顕信、嫡子の守親が陸奥国司を歴任しています。その後は北朝側の足利軍に攻められ落城、3600坊あったとされる霊山寺も荒廃していきます。

霊山神社神門(神社山門)は切妻、鉄板葺、三間一戸、四脚門。霊山神社拝殿は木造平屋建て、入母屋、鉄板葺、妻入、正面3間向拝付、外壁は真壁造板張り。霊山神社本殿は三間社流造、鉄板葺、外壁は真壁造板張り。祭神:北畠顯家公、北畠親房公、北畠顯信公、北畠守親公。

霊山神社:上空画像

【 参考:サイト 】
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
【 参考:文献等 】
・ ふるさとの文化遺産-郷土資料辞典7[福島県]-株式会社人文社
・ 現地案内板(由緒)-霊山神社


霊山神社:ストリートビュー

霊山神社:本殿・拝殿・写真

霊山神社境内麓に設けられた鳥居
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霊山神社参道石段から見上げた神門 霊山神社神門から見た境内石畳みの様子 霊山神社拝殿正面と朱色の木製燈篭 霊山神社本殿とそれを取り囲む透塀と幣殿


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