会津若松市: 西郷頼母邸跡

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概要・歴史・観光・見所
西郷頼母邸跡(会津若松市)概要: 西郷頼母邸跡は福島県会津若松市追手町に位置しています。西郷家は会津藩の藩祖保科正之が保科家に養子になる前の保科家の親戚筋で、保科姓を許され会津藩では代々家老を務める家柄となり1700石の石高を領しました。西郷頼母は文政13年(1830)に会津藩家老西郷近思の嫡男として生まれました。安政5年(1858)28歳の時に家督を継ぎ万延元年(1860)家老職を就任、文久2年(1862)に藩主松平容保が京都守護職を幕府から要請されると公然と反対した事から家老職を解任され蟄居させられます。慶長4年(1868)に戊辰戦争(会津戦争)が勃発すると家老に復職、白河口総督として奥羽越列藩同盟により奪還された小峰城(福島県白河市)に入りましたが、数日後には再び新政府軍に奪還され、その後も小峰城に攻撃を仕掛けるも思うような成果が得らず総督を罷免となっています。頼母は閉門になっていたにも関わらず鶴ヶ城に入り冬坂・赤井方面の指揮にあたっています。一方、籠城戦で城内に入れなかった一族21名は西郷邸で自刃、西郷家の菩提寺である善龍寺(福島県会津若松市北青木)に葬られました。籠城戦も佳境となり敗戦必死の状態になると頼母は藩主松平容保の命を受け長男である吉十郎を連れ米沢藩(山形県米沢市)に向けて鶴ヶ城を脱出、その後、仙台藩(宮城県仙台市)を頼り、さらに旧幕府の軍艦である開陽丸で蝦夷地(現在の北海道)にわたり箱館戦争にも参加しています。明治2年(1869)に蝦夷共和国が降伏すると館林藩(群馬県館林市)に幽閉され、その後、馬場都々古別神社(現在福島県棚倉町)の宮司や日光東照宮(栃木県日光市)宮司の宮司となった松平容保の補佐、霊山神社(福島県伊達市霊山町)の宮司などを行い晩年は会津に戻っています。明治36年(1903)死去。享年74歳。西郷頼母邸は鶴ヶ城の大手筋で北出丸入口正面にあった事からも軍事的用地に配され、周辺には内藤家など家老級の家が軒を連ねていました。現在は市街化により屋敷の面影はありませんが、一角に石碑が建立されています。

西郷頼母邸跡:写真

西郷頼母邸跡
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