会津若松市: 西軍砲陣跡

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概要・歴史・観光・見所
西軍砲陣跡(会津若松市)概要: 西軍砲陣跡は福島県会津若松市門田町黒岩主山丙に位置しています。江戸時代末期に発生した戊辰戦争の際、会津藩は再三和睦を求めていたにも関わらず、到底受け入れならない条件を突き付けられ、結果的には東北地方、北陸地方の諸大名の間に取り交わされた奥羽越列藩同盟に参加し新政府軍と戦う事になりました。同盟側は拠点となっていた宇都宮城(栃木県宇都宮市)、小峰城(福島県白河市)を失い、盟友である長岡藩の本城である長岡城が落城、新発田藩(新潟県新発田市)の離反により四方から新政府軍が会津藩領に侵攻しました。当初は一進一退の攻防戦が繰り広げられていましたが、慶応4年(1868)年8月21日会津藩が想定していなかった母成峠から新政府軍の主力が進軍した為、圧倒的な兵力差で母成峠の戦いは僅か1日で敗北しました。同日、当方面の会津藩の最大の拠点だった猪苗代城を放棄し、藩祖保科正之が祭られている土津神社も焼き払われました。新政府軍は8月22日に猪苗代湖に達し、十六橋の戦いや白虎隊が参加した戸ノ口原の戦いでも勝利、8月23日には鶴ヶ城の城下町に入りました。これにより、会津軍は早くも籠城戦を余儀なくされ、各地に派遣していた藩兵達も随時鶴ヶ城まで撤退しました。堅城を誇る鶴ヶ城を前に数日は新政府軍も攻めあぐねましたが、8月25日に新政府側に鶴ヶ城を眼下におさめる小田山の存在を知らせる者がいて、見分の結果小田山に砲陣を設ける事が決定しました。小田山から鶴ヶ城までは約1.5キロ程で、新政府側に与した鍋島藩が所有していた最新式のアームストロング砲は2キロ以上の射程距離があった為、大きな打撃を与えました。その他の藩の大砲も、角度の微調整を行う事で次第に鶴ヶ城に届くようになり、約1月後の9月22日に降伏が告げられ開城に応じています。

新政府軍砲陣跡の案内板によると「 慶応4年(1868年)8月25日(現在の10月10日頃)新政府軍は、小山田に砲陣を設けました。砲台は8ヵ所確認されている。最も大きい遺構は、長さ5メートル、幅2メートル、底辺は平坦で、山側がやや低くなっています。ともに天守閣の方向を標的にしている。天守閣とは、直線で約1360メートル離れ、大砲の射程距離が約1500メートルあったことから十分城内に届きました。佐賀藩のアームストロング砲(左下図3番に据えた)は大きな破壊力を持っていました。当時の大砲は、組立て式で分解して運ばれています。」とあります。

西軍砲陣跡:写真

西軍砲陣跡
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