会津若松市: 直江兼続邸跡・山鹿素行生誕地

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概要・歴史・観光・見所
直江兼続邸跡・山鹿素行生誕地(会津若松市)概要: 直江兼続邸跡・山鹿素行生誕地は福島県会津若松市山鹿町一丁目に位置しています。直江兼続は幼少の頃から後に上杉家の家督を継いだ上杉景勝に仕え、特に上杉謙信が急死した事に発した跡目相続争いである「御館の乱」では終始景勝の側近として活躍し、その信任から若くして上杉家執政に就任しました。上杉家が豊臣秀吉に下ると、秀吉からは「天下の陪審」との評価を得、高禄で豊臣家家臣に誘われたとも云われています。慶長3年(1598)に景勝が120万石で越後から会津に移封になると、その内30万石(実質は6万石とも)は兼続領だったとも云われ、それが事実であれば中堅大名並の評価を得ていた事になります。当地は鶴ヶ城の内堀に接する要地でもあり、兼続の信任の篤さが窺えます。慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いは兼続が徳川家康に宛てた所謂「直江状」が事実上の宣戦布告だったとも云われ歴史的にも大きな影響力があった人物でした。結果的には西軍が敗北となり、上杉家は米沢藩30万石に移封となった為、兼続も会津を離れています。

山鹿素行は江戸時代初期の儒学者、軍学者として知られ、山鹿流兵法及び古学派の祖とされる人物で、元和8年(1622)に父親で浪人だった山鹿貞以が会津に滞在中に生まれたと考えられています。山鹿家の祖とされる山鹿秀遠は平安時代後期に平盛国に従い、その後も長く平盛国の後裔である関氏の家臣として仕えていました。貞以は元々、当時の主家である関一政の家臣で、一政が小峰城(福島県白河市)→飯山城(長野県飯山市)→多良城(岐阜県大垣市上石津町)→亀山城(三重県亀山市)→黒坂城(鳥取県日野郡日野町)に遷る度に随行しましたが元和4年(1618)に御家騒動により関氏は改易となった為、浪人となり、知人で蒲生氏郷・秀行・忠郷に従った町野幸仍を頼り会津の町野屋敷で住んでいたと思われます。町野幸仍は蒲生家の重臣として猪苗代城二本松城小峰城などの城代を歴任し、家臣ながら概ね3万石前後を与えられ小大名並の待遇を得ていた事から浪人を雇う事が容易だったのかも知れません。山鹿素行は父親がこのような立場だったからか、寛永5年(1628)、僅か6歳で会津を離れ江戸に出て、寛永7年(1630)には林羅山の門下となり、その後も名だたる知識人から多くの学問を学びました。その後、朱子学を批判した等が理由で赤穂藩(兵庫県赤穂市)に預けられ、赤穂藩の藩士の教育に尽力、その中の一人が赤穂事件の首謀者となった大石内蔵助がいて吉良邸討ち入りで生かされたとも云われています。

直江兼続邸跡・山鹿素行生誕地:写真

直江兼続邸跡・山鹿素行生誕地
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