直江兼続(関が原の戦い)

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直江兼続(関が原の戦い):概要 一般的に直江兼続は永禄3年(1560)に上田長尾家の家臣である樋口兼豊の子供として生まれ、幼少の頃から顕景(後の上杉景勝)に従い、小姓、近侍などを担いました。天正6年(1578)に上杉謙信が死去すると、跡継ぎ争いである「御館の乱」が発生し、景勝の側近として活躍し重用されるようになり、天正9年(1581)に上杉家の重臣で名門である直江信綱が殺害されると、信綱の妻である船の婿養子という形で直江家を相続します。その後、上杉家の執政に就任すると領内の内政・外交の取次は兼続を通して行うようになり絶大な権力を掌握します。その後も天正壬午の乱や、新発田重家の乱、佐渡平定、小田原の役、朝鮮出兵などにも参陣し大功を挙げ、内政面でも領内整備を積極的に行っています。慶長3年(1598)に上杉家が五大老に就任し春日山城(新潟県上越市)から会津鶴ヶ城福島県会津若松市)に移封になった際に120万石に加増になりましたが、その内の30万石が兼続の采配地(自領は6万石程度※居城は米沢城)とされ、家臣でありながら大名並みの石高を領しました。豊臣秀吉からも信任され、家臣に誘われた程で豊臣姓も賜っています。

慶長3年(1598)、豊臣秀吉が死去すると徳川家康鴫山城は法令で禁止されていた大名同士の談合や婚姻(特に豊臣家家臣で武断派と呼ばれた七将との婚姻関係が目立つ、福島正則、蜂須賀至鎮、加藤清正、黒田長政など)を繰り返し豊臣政権に大きく揺さぶり慶長4年(1599)には無断婚姻の問罪使として三中老が派遣され緊張状態が続きました。さらに石田三成を中心とする文治派と七将を中心とする武断派の対立も表面化し前田利家は徳川家康と誓書を交わすことで一旦和睦が成立しましたが、利家が死去すると、福島正則、加藤清正、池田輝政、細川忠興、浅野幸長、加藤嘉明、黒田長政などが大坂の石田三成屋敷を急襲する事件が起きています。これにより石田三成は居城である佐和山城(滋賀県彦根市)に蟄居、家康は大坂城の西の丸に入り政務に大きな影響を及ぼし豊臣家の蔵入地を独断で大名を分け与えるなど徳川派を固めつつありました。さらに、家康のやり方に快く思っていなかった前田利長や浅野長政、土方雄久、大野治長らを家康暗殺を画策したとの嫌疑をかけ処罰し、糸沢宿これにより五大老の一角である前田家が徳川家に転じています。そのような背景から会津鶴ヶ城(福島県会津若松市:現在の鶴ヶ城)の城主上杉景勝は執政である直江兼続に命じて領内の防衛施設の整備を行わせました。徳川軍が上杉領に侵攻する際には大きく白河口と下野口が想定された為、兼続は下野口である会津西街道沿いに鶴が渕城(栃木県三依)を築き、弟である大国実頼が配された鴫山城(南会津町田島:福島県指定史跡)と九々布城(福島県南会津郡下郷町)の大規模な改修、山王峠の要塞化を命じています。


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慶長5年(1600)、徳川家の再三な上洛要請を無視し、代わりに直江兼続は徳川家康に詰問状、所謂「直江状」を叩き付け徳川家と上杉家の関係が決定的になると会津征伐が発令され、徳川軍が北上を開始します。兼続は各城の工事の進捗状況や戦略上の地理の把握の為に会津西街道を視察、又は軍を率いて鶴が渕城まで進軍したとされます。実際には横川宿に300騎、鶴ヶ渕城に150騎、糸沢宿に200騎などが着陣しましたが、徳川軍は石田三成の挙兵の報を聞くと小山(栃木県小山市)で評定を開き、押さえの兵を残し一転西上し関が原の戦いに臨んでいます。対する上杉軍も追討を行わず、出羽の最上義光と陸奥の伊達政宗との戦いに終始し、本戦での関が原の戦いで西軍が敗退すると自領に引き上げ降伏しています。結果上杉家は改易は免れたものの120万石から米沢領30万石に減封となっています。

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