長沼盛秀(田島宿):概要 長沼氏は古くから鴫山城を拠点にして南山地方を支配した国人領主で、往時は会津四家(芦名氏・河原田氏・山之内氏・長沼氏)に数えられ独立性を保っていましたが、戦国時代に入ると芦名家の勢力が拡大し従うようになっています。天正17年(1589)に摺上原の戦いで芦名氏が伊達政宗に敗れて会津を去ると、盛秀は伊達家に転じて保身を図り、逆に伊達家に従わなかった河原田氏、山之内氏と対立関係が深まります。芦名氏は先代、先々代と早世した為、佐竹氏から養子を迎える事となり、家臣団の中でも佐竹派と伊達派に分裂、政宗はそこに付け込んだ勝利で、盛秀は伊達派だった事から戦後は比較的帰順し易かったと思われます。逆に河原田氏と山之内氏は佐竹派だった事もあり芦名氏が本家である佐竹氏を頼り常陸国に退いた後も抗争を続けました。盛秀は山之内氏の立て籠もる簗取城を攻略、さらに河原田方の泉田城を苦戦しながらも落城させ怒涛の快進撃を進め、奥会津侵攻に大きく貢献しましたが、河原田氏攻めを行っている中、天正18年(1590)に小田原の陣が起こり、伊達政宗は参陣を果たしたものの、盛秀は戦いの最中だった事から参陣出来ず、さらに合戦中に河原田家の当主だった盛継と盛秀の両名が討死する事態となりました(盛秀は受けた傷により死去したとも)。結果的に小田原不参陣と惣無事令違反で豊臣秀吉の奥州仕置きにより長沼氏は改易、領地が取り上げられ伊達家の家臣としてに完全に取り込まれる事となり、長く支配した南山地方を後にしました。伊達政宗は自らは小田原に参陣し豊臣秀吉から許されたものの、伊達家に従った大名には参陣させず、ほぼ全てが改易となり家臣に成り下がっています。
【田島宿】−田島宿(福島県南会津町)は長沼氏の居城だった鴫山城の城下町として整備され発展した町で、会津西街道の宿場町として整備された後も南会津地方の天領支配の中心として代官所(陣屋)が置かれ行政、経済の中心としての地位を維持しました。田島宿には長沼氏歴代の菩提寺である興国山徳昌寺や崇敬社として庇護した田出宇賀神社、熊野神社などが点在し、明治11年(1878)に田島宿を訪れたイギリス人女性紀行家イザベラバードも大名の城下町で趣きのある町と評しています。
【興国山徳昌寺】−徳昌寺は永享7年(1435)に創建された長沼家歴代の菩提寺で通覚和尚により開山されたと伝えられています。敷地内には盛秀のものと伝わる五輪塔が建立され南会津町指定史跡に指定されています。堂宇も歴史ある建物で天保15年(1844)に建てられた本堂と文政3年(1820)に建てられた庫裏は国登録有形文化財に登録されています。御蔵入三十三観音霊場第15番札所。
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