徳昌寺(南会津町)概要: 興国山徳昌寺は南会津郡南会津町田島字寺前甲に境内を構えてる曹洞宗の寺院です。徳昌寺の創建は室町時代の永享7年(1435)、開基長沼政明、開山通覚和尚として開かれたのが始まりとされます。
長沼氏は中世、鴫山城を拠点として南会津地方を長く支配しましたが、天正18年(1590)の小田原の戦いで豊臣方への参陣を行わなかった為領地安堵が行われずこの地を去っています。鴫山城の城主である長沼家の菩提寺だった為、大きな加護は失われたものの、その後も当地域の中心的な寺院だったようで、現在も広大な境内を所有し古刹の雰囲気が感じられます。
現在の徳昌寺本堂は江戸時代後期の天保15年(1844)に再建されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、桁行8間、張間6間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、建築面積327u、棟梁は越後蒲原郡出身の源蔵、内部は6室構成、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の遺構として貴重で、「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。
徳昌寺庫裡は江戸時代後期の文政3年(1820)に再建されたもので、木造平屋建て、南側入母屋、北側切妻、銅板葺き、平入、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、建築面積297u、平面は6間取、座敷は床の間、棚付きの格式が高い構成、江戸時代後期の寺院庫裏建築の遺構として貴重で、「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。
徳昌寺金毘羅堂は江戸時代中期の安永5年(1776)に造営されたもので、木造平屋建て、入母屋、銅板葺き、平入、正面1間向拝付き、外壁は真壁造り板張り、建築面積10u、棟梁は田島東町出身の佐藤忠治、江戸時代中期の御堂建築の遺構として貴重で、「造形の規範となっているもの」との登録基準を満たしている事から平成13年(2001)に国登録有形文化財に登録されています。
徳昌寺境内に建立されている長沼盛秀墓群は無銘五輪塔(2基:総高86.5cm・総高66cm)、宝篋印塔(総高70cm)、五輪塔(長沼盛秀墓:総高107.5cm)で構成され、長沼氏の歴史を知る上で欠かせない事から平成13年(2001)に南会津町指定史跡に指定されています。
寿林の墓(総高86.5cm:南会津町指定史跡)は会津藩の御家騒動の一つ「堀主水事件」の首謀者である堀主水(会津藩筆頭家老)の正室(寿林方)の墓碑で、一般的には堀家は一族郎党全て捕えられ処罰されたとされていますが、寿林は東慶寺の天秀尼に助けられ、その後、弟で会津西街道田島宿の田島検断に就任した黒川貞得に預けられ当地で没したと伝えられています。
室井杢左エ門の五輪塔(総高296.5cm:南会津町指定史跡)は初代田島検断を担った室井杢左エ門の墓碑で生家である猪俣家が徳昌寺境内に建立したと伝えられています。御蔵入三十三観音霊場第15番札所(札所本尊:聖観音菩薩・御詠歌:波羅蜜や田島の里のたじろかず またのちの世をたすけ給へや)。山号:興国山。宗派:曹洞宗。本尊:釈迦如来。
徳昌寺:上空画像
【 参考:文献等 】
・ 現地案内板-南会津町教育委員会
・ 現地案内板-田島町教育委員会
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